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いつかの、(告白)

「そうなんですか」感情を込めないように、推し量られることのないように、相槌を打った。

「今は」

「今は、もう思わないかな。ときどき、さみしくなることはあるけど」

 歩きながらでよかった。今の梛さんの目を、見たくなかった。わたしの心の内を曝け出したくない。梛さんが今、わたしの目を見たとしたなら、全部ばれてしまうだろう。死にたいわたしは雨に打たれ、フードの下、涙の代わりに、雨粒にまみれる。

「寂しいっていうのは、どういう意味ですか」

「どういうときだと思う」

 ひとりでいるときじゃないんですか。正解。そんなやり取りを繰り返す。いつしかお互い饒舌になっていた。心情や、考えていたこと、そんな風に、核心の外側をなぞりながら言葉を交わした。もちろん、目は合わせないまま。梛さんが付いて来られているのか、言葉が聞こえる限り、振り返る必要はない。わたしはペースを上げ、梛さんもそれに合わせた。アンサンブル、というには単調な歩みかもしれないが、歩調を揃え、先を目指す。久しぶりのことだった。父と登って以来。そうか、もうそんなに、時間は経っていたんだ。

 世界中の人々のうち、どれだけの人数が、死にたいという思いを抱えているだろう。生きたい、という思いを抱える人々と、どちらが多いだろう。死にたい、と思う人にも、やっぱり生きていたい、と感じる瞬間はしばしば訪れて、それを支えにケとハレを繰り返すのだ。誰にも見初められることなく、ひとりぼっちで消化吸収を繰り返すうちに、生きたい、という感情は鈍化して、たくさん字を書いた後の鉛筆みたいに、鉛筆削りにかけられるのを待っている。

 そのうち短くなると、所有者からは見捨てられて、筆箱の奥か、くずかごか、光の当たらない場所で、鉛筆はその役目を終える。今のわたしはどれくらい、尖れているのかな。

 梛さんは、どうやって、死にたい、という思いから、逃れられたんだ? 疑問に次ぐ疑問。終わらない質疑応答。それらすべてを一旦胸の内に押し込めて、

「もう少しで、八合目に出ます」

 なによりも先決されるべきは、登ること。気付けば白樺の林を抜け、腰ほどまでの低木が辺りを覆っていた。期待、なんて全くしていなかったが、やはり景色は悪い。いや、一般的な感性を持ってして言えば、悪い。わたしや梛さん(おそらくだが)の家があるあの街を遠景に望むことはできなかった。それでいい。ここに、希望や、幸福感、生への執着を加速させるような、温度のある存在は、必要ない。雨は変わらず、勢いを強めることも弱めることもせずに降り注いでいる。雲に切れ間はなく、それどころか濃さのある霧まで立ちこめてきた。遠景どころか、近景も禄に見えたもんじゃない。

「他の登山客、会わないね」

「そりゃ、そうですよ・・・・・・」こんな天気なんだから。この街に、この国に、他に阿呆はいないということか。そう考えると、なんだか悲しくなってきた。

 同志よ。この世界に単純な閉塞感を覚えるのみならず、優しさ、という言葉に疑念を抱くものたちよ。

 自分の外側、膜の外側。壁の外側。わたしは今まで、そのことに信じられないほど無頓着であった。それに、今、気付いた。ウケる。これは昔使われていた言葉。インターネットの端っこにあったやつ。こんな世界、桎梏に満ち満ちた世界、生きてなんかいけないよ、いっそのこと薬物中毒にでもなって、永遠にドロップアウトしてやろうか、なんて考えていたはずなのに、わたしはそれを、ぜんぶぜんぶ、わたしの中の問題として片付けようとしていた。

 それが根本的に、間違っていた。誰からもそれを指摘されず、今の今まで涵養してこられたのは、わたしが他の誰にも、心を開くことがなかったからだ。いくら自分の内側で客観性を持とうとしたって、外部の「監査」に頼らなければ、その公平性は担保されない。じゃあ、これから、わたしは。

「梛さん」

「なに」

「あの」

「うん」

「死にたいと、思っていました」

「うん」

「今も、ときどき、思うんです」

「うん」

「死にたいというか、初めから、生まれなかったことにしてくれれば良いのに、って」

「そうすれば、死んだことを悲しまれずに済むから」

「うん」

「わたしだけが、安心して不幸になれる」

 雨足が強まった。八合目。風を遮る木々は、わたしたちの周りにない。突風が吹けば、なすすべもなく吹き飛ばされるような、ちっぽけなわたしたち。わたしたちは尾根に立っている。祖母が落ちた、あの尾根。雪はなく、霧もそれほど濃さを増してはいなかった。

 底が見える。右向け右。空間。左向け左。空間。足下に広がる空虚。屋上の縁に立っているのと、似たような感覚。脳味噌の右上で眩暈がした。そこを中心に、世界はぐるりと一回転。それでも意識はきちんと、手綱を離れることなくわたしの手元にあった。

 世界に二人きり。他には誰もいない。わたしが心の底から欲していた「特別」が、目の前にあった。

 わたしは振り返る。

 梛さんはそこに立っていた。ずっと前から、わたしが梛さんに出会う前から、ここに立つことが運命付けられていたような、そんな素振りをして。

「今日は、ありがとうございました」

「まだ登ってないでしょ」

「もう、いいかなって」

 会話の主導権を握っているのはわたし。いつもとは真反対。入れ替わったのは、いつからだったっけ?

「下りるの」ずぶ濡れの頭。着衣水泳のプールから今まさに上がってきたみたい。

「絵を見つけたんです」

「学校に向かう途中の、喫茶店で」

「どんな」

「梛さんが書いていた、屋上で」

 そう、あの絵。この山の絵。どうして? 今の今まで、その先の疑問を見つけることができずにいた。思考がフリーズして、再起動。その繰り返し。どうしても、その先にある重要な問いには辿り着けなかった。

「店主が言ったんです、あの絵は、亡くなった生徒が描いたものだ、って」

 梛さんは何も言わない。だから、わたしは話す。話さなければならない。わたしの内側の、臆病なわたし。心情を吐露するなんて、絶対にしない。友達にも、父親にも、梛さんにも。

 だけど、ここでわたしは、一歩を踏み出す必要がある。興味本位。ナルシズム。承認欲求、自己肯定感。希死念慮。一度にたくさんの枷がわたしの脚に絡みついた。この世界から消えようとしていたわたしを引き留めていたのは、奇しくもわたしのタナトスだった。

「生徒は、二十年以上前に亡くなっていたそうです」最初の一音を絞り出すように、尚且つそれをおくびにも出さないように、努めて平静を装う。

 そんなこと、全部ばれているに決まっている。

 梛さんは、わたしの目を見ている。また、アルカイック・スマイルを浮かべて。

 わたしの推測には、それなりの確信があった。推理小説みたいに納得の行くような証拠もなければ、梛さんを唸らせるようなトリックの解説もない。もとより、そんなもの必要なかった。納得できるのはわたしだけで十分。だって、目の前にいるのは。

 逡巡。

「梛さん」

 意識を眼前に向ける。勇気という言葉を文字通りに受け取れなくなったその日を境に、世界の色は褪せ始めていた。もう一度、わたしの手に、わたしの見たい世界を、取り戻す。この世界と決別する以外の方法で。

「梛さん」

 もう一度、名前を呼んでみる。柄じゃない。酔ってるんだ、わたし。
数秒かかった。

「梛さん」

「梛さん」

 おかしい。

 梛さん。梛さん。梛さん。

 目の前に、梛さんはいない。アルカイック・スマイルの残像も、発していた言葉の飛沫も、どこにもない。足跡も、なにもかも。匂い立つ雨の香りに、すべては流されて。

(続く)

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