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ランドマーク(56)

 わたしはプールの中にいる。わたしは潜水服を着ている。酸素ボンベはもちろんなし。深さは、たぶん四十メートルくらい。普段はダイビングのトレーニングに使用されているこの施設は、打ち上げまでの期間貸し切りだ。わたしのための貸しアパート。底まで潜っても暗くはない。照明がわたしを照らし続けてくれるから。それに、ガラス越しに人の姿を認めることだってできる。向こうで母が手を振っている。わたしはそのガラスまで一気に近付き、思い切り頭突きをしてやった。母は少し驚いて窓から顔を話したが、再びわたしに向き合いにっこりと笑った。水族館のアザラシにでもなった気分だ。これが観客の視線。
 しかしいくら打ち上げまで貸し切りだからといって、わたしはこのプールにいつまでも浸かっていわれるわけではない。目的はあくまでも生体の安定化、それから微小重力化での運動に慣れること。太平洋のような外海よりも、ずっと調整に適しているとの判断に基づいた選択だった。外海のもたらす危険は無数に存在する。モニタリングにも大きなリスクがつきまとう。ついこのまえ、わたしが足を食いちぎられることなく帰ってこられたのは非常に幸運なことだった。後で聞いた話によると、周辺は非常にサメの目撃情報が多い地点であったようだ。

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