見出し画像

いつかの、(翠雨)

 バスを降りると、いちめんのみどり。アスファルトから立ちこめてくるペトリコール。マイナスイオンって何だったっけ。ふたりはすぐにジャケットのフードを被り、歩き出す。ルートは決まっていた。山頂の東南東、ちょうど学校から見える面を登る。つまり、わたしたちが登るにつれて、開けた視界にはあの街並みが映るということだ。わたしが日々を燻らせるあの街。

 父親と登ったルートは北東からのもので、他に六つ、合わせて八本のルートがある。全てのルートは八合目で合流し、そこからは一本の道になって山頂へと続いている。山頂への道はハイマツ地を抜けるとすぐに尾根へ出る。晴れていても風は強い。ましてや今日のような日は。わたしはザックに触れた。ザックカバー、落としてないよな。

 梛さんの登山歴がどれほどのものかは分からなかった。身につけた装備はどれも新品のように見えたけれど、ただ単に綺麗好きなだけかもしれない。とにかく、わたしは先導して歩を進めた。晴れていれば五時間とかからないハイキング、今日は日が落ちるまでに戻れるだろうか。いや、降りなければ。

「休もう」

 後ろから声が聞こえた。腕時計に目をやる。九時を回ったところ。もう五十分は歩いていた。その間、一度も言葉を交わさずに。
 わたしたちはザックを前に抱えて、なるべく雨が当たらないよう水筒を取りだした。満員電車の学生みたいで滑稽だ。まあ、満員電車なんてこの街にはないけど。

 初めのうちは身体が暖まっていないから、呼吸をするのにも苦労するほどだった。徒歩通学で鍛えたはずの脚は坂道というものを知らなかったから、脹脛は既に張り始めている。それ以外は、頗る快調。水分を喉へ流し入れる。雨は少し弱まって、手の平に注ぐ水滴が心地良い。ずっと上、天から降ってきた雨粒が、わたしの上に注いでいる。もちろん、梛さんにも。橫を見ると、梛さんは座り込んでしまっていた。早過ぎないか。

「大丈夫ですか」
「大丈夫」梛さんは下を向いたままそう言った。「もう少しだけ、休ませて」

 わたしは苛立ちを覚えた。梛さんにまさか、こんな感情を抱くことになろうとは。しかし事実として、誰の目から見ても梛さんが体力不足であることは明らかだった。どうやらわたしは過大評価していたみたいだ。一人でたまに登る、という、数ヶ月前の言葉を真に受けて。

 それと、もう一つ。わたしは内心喜んでいた。そのことをわたしは好ましいとは思わないが、既に、心がそう、そう言っていた。だからこれはもうどうしようもないことだ。上に立つための粗探し。罪深い私。改めて、わたしはわたしを深く押し込めた。梛さんにもきっと届かない、ずっと奥。例えば御神体みたいに。そして、それに触れて欲しいと願う、そんなわたしがいることにも、わたしはちゃんと、気付いていた。

(続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?