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いつかの、(微か)

 誰だ。

 さあっと熱が引いた。おかしい。わたしは侵入者だった。開店前のカフェに無断で入り込み、絵を眺めている。警察に通報されていてもおかしくない。そのわたしを、待っている。そんな人間は梛さん以外にいない。わたしは顔を上げた。声が聞こえた店の奥から、老齢らしき人物がこちらへ歩いてくる。黒地に白のストライプが入ったエプロンを付けていて、その下にはリネンのシャツを着ているようだった。

「す、すみませんでした」

 咄嗟に言葉が浮かばず、形だけの謝罪を口にする。いや、今は本心か。今のわたしは、「臆病な側」だから。

「その絵、好きなの」

「まあ、ええ……」

 この人の笑みをわたしは覚えている。デジャビュというやつだ。胸の奥がざわざわと蠢いた。わたしのからだは、すでにわたしのものではない。

「その絵はね、昔、学校の生徒さんからいただいたものだったんだよ」
「学校っていうと、そこの」
「うん。あなたもそこの生徒さんですか」
「はい」

 わたしは制服を着ている。通報されると面倒なことになる、と思っていたはずだが、わたしの目の前のテーブルにはいつの間にか湯呑みが置かれていた。コーヒーじゃないのか。

「ありがとうございます」
「熱いから冷ました方がいいよ」

 経るべき手順をいろいろと飛ばしている気がするのだが、輪をかけて不思議に思われたのは、この人の所作や言葉遣いの端々から、梛さんの面影が見て取れることだった。血縁関係があるのだろうか。そういえばわたしは、梛さんがどこに住んでいるのか、知らなかった。家族構成も、住所も、なんだか野暮ったくて、もうずっと聞き出すきっかけを失ったままだった。
 
 今ここで、この人に尋ねるべきだろうか。海良梛をご存じですか。親戚ではありませんか。そうすれば、あの絵にもっと、きっと近付ける。そして、梛さんにも。

「あの」わたしはそう口にした。口の筋肉を緩めるには一番手っ取り早い発声法。

「この絵は、どういう経緯でここに」わたしは回り道をすることにした。
 絵に興味があるのは事実だ。でなければ不法侵入なんてしない。咎められなくて良かった。そんなことを考えているうちに、相手方は口を開き始めた。

「そうだね、三十年前くらい、前のことだったかな」
 嘘でしょ。全く予想外の答えだった。この人の言う昔とは、そんなに前のことを指していたのか。いや、それよりも。

「美術部の生徒さんかな、屋上から落ちて亡くなったそうなんだ」何の気なしにそう言う。おいおい。「この絵は、その生徒さんが描いていた絵でね」
「そんなに昔のものだったんですか」
「書きかけのまま、屋上に残っていたらしいんですよ」

「じゃあ、この絵は未完成なんですか」努めて冷静にそう言う。どうして梛さんは、その絵を。描いていた?
「私にはどうもそうは思えないんです」
「どうして」
「書きかけの遺書を残して死ぬ人がいますか?」
 
 店主らしき人物は微笑んでそう言った。気味が悪い。しかし、だとすると、わたしの抱えた謎は解けない。梛さんがあの山の絵を描く理由。しかも、何枚も、同じ絵を。それがこの絵と全く一致する、このことはいったい、何を意味するのだろう。梛さんに会える手はずが整えばそれで十分だったはずなのに、また頭の重しが増えてしまった。
 
 分からないことが多過ぎる。公式を当てはめて解ける問題はひとつもない。いや、もしかしたらあるのかもしれない。でもそれはきっと難関大学の入試問題みたいに、巧妙にカモフラージュされている。いまのわたしには、問題文の一行目を理解することすら難しいっていうのに。

「それで、そのあとこの絵はここに寄贈されたんですか」わたしは話を進める。そうするしかない。手を動かせ。口を動かせ。頭を動かせ。酸素がなくなるまで。
「その生徒さんは、ここによく来ていてね。わたしも顔を覚えていました。会話をすることはほとんどありませんでしたが、生徒さんの両親もそのことをご存じだったみたいで」
「どんな顔だったか、覚えていらっしゃいますか」湯呑みを持ち上げながらわたしは言う。
「そうだなあ、なにせ四半世紀前のことですから」店主は俯いて顎に手を当てた。その姿勢はどうしてか儀礼的に感じられた。

 思い出す、という行為は、歳を重ねる度に重みを増していく。ミルフィーユみたいに重なった記憶は、下層のものになればなるほど、引き出すのが難しい。積み重なった記憶の摩擦力。時を経て熟成した、あるいは変質した記憶を取り出す。時間を超越しようとする姿をわたしは見つめていた。記憶がある限り、わたしもいずれ、時間の重力に祈りを捧げるときがくるだろう。それまでは、なるべく軽やかに、生きていたい。

(続く)

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