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身体と肉体と”私の親愛なる人”

昨日出席した、ボディワークののオンライングループレッスンでのこと。
私のレッスンの時に「自分の周りの空間に自分の両手を使って、この画面に見えている人たちを切り取る」との課題を出され、私は指示に従って自分の周りの空間に画面の中にいる人をひとりずつ切り取った。
その時ふと思いついて、私は海の向こうにいる”自分の親愛なる人”を切り取った。
あなたはどのぐらいの背の高さだっただろうか?前に会った時、私は自分があなたよりも背が低いということを冷徹な事実として明確に知った。あなたを優雅に包み込むには、私の身体は寸足らずだった。思い切り背伸びをして、それでもあなたの肩と私の肩の高さが同じになることはなかった。
あなたはどのぐらいの肩幅だっただろうか?私にとっては心地よい完璧な幅だったけれど、空間に形を切り取るとしたらどのぐらいの幅になるのだろう?
あなたの腕の長さはどのぐらいだっただろうか?私はあなたの腕に、肌理の細かい、少し乾燥した温かな肌を感じた。両腕に彫られている鮮やかなタトゥ。華奢な両手。きちんと切られた愛らしい小さな爪。それから、すらりと長い脚。白く湿度のあるつま先。あなたの身体には、あなただけにある高さ、幅、奥行き、それから、温度と湿度と、質感がある。

全身を空間に切り取り終えた私は、自分が泣いていることに気づいてギョッとした。一体何なんだ?もう何か月も会っていないし、近頃では会えないことに慣れてしまって寂しいと思う気持ちもなかった。会える時には会えるし、今はその時ではない、というだけのこと。私は一体何を泣いているのだろう?寂しいとか、悲しいとか、恋しいとか、そういう気持ちはなく、ただ肉体の衝動として”泣く”という行為が起きていた。

私と”私の親愛なる人”は生物学的には同性で、私の性自認は女性であり、”私の親愛なる人”の性自認はノンバイナリーである。私はこの人の恋愛性愛の対象がどのようなところにあるのかを知らない。
私はある時この人に「私はあなたの言葉の使い方にとても興味がある。失礼な言い方かもしれないが、私はあなたを美しい生き物だと認識していて、あなたのことをもっと知りたいと思っている。これを聞いてあなたはどう感じるか?」と震えながら聞いた。そして、その翌日にまた「私はあなたのことが大好きなのだけど、このままあなたに興味を持ち続けていいか?」と聞いた。回答は「Yes」だった。" love you" と言うと "I love you" と返ってくる。「私はあなたを抱きしめたい。もしあなたがNOなら、私はそれを歓迎する。」と言うと「私もあなたを抱きしめたい。」と返ってくる。私は「Yes」のレスポンスをもらう度に、痛みと温かさと恐怖の混ざり合った複雑な感情が胸の奥に広がる。

私の肉体には”私の親愛なる人”にかきたてられる明確な衝動がある。だけどそれを一体どうすればそれが表現できるのか、それを一体どのように言葉で言い表すことができるのか、私にはまるで分からない。そればかりか、私が相手との間にに求めている関係には名前がない。「I love you, dear my friend」と言われた時には思わず唇を噛みしめた。私はあなたの友達になどなる気はない。私はあなたと「友達」という域のずっと向こう側にある、もっと親密で特別な関係でありたいのだ。かといって「恋人」という表現も「パートナー」という表現も、私の望む関係を表わしてはいない。私は甘い夢が見たい訳ではない。

”私の親愛なる人”の肉体を空間に切り取った時、私の身体はそこにその肉体の存在を認め、言葉などが到達し得ないような次元にいた。私の思考とかけ離れたところで、私の身体にとって”私の親愛なる人”の肉体の存在は、かけがえがないものだ。寂しさや悲しみとは全く質の違う、ものすごく深いところから湧いてくる情動が、私を泣かせた。

私の身体にとっては、私が”私の親愛なる人”に発した言葉のどれも、全くどうでもいいものだった。ただ一緒に同じ空間にいたいだけで、他のことはどうでも良かった。信頼関係の構築も、お互いを知ることも、そんなことはどうでもいいことだった。「お互いを尊重できるような関係を築きたい」なんて言ったけれど、それを私がどれ程切実に言っていたのだとしても、そんなことは真実とはかけ離れたことだった。
もしも私が私の身体の衝動としっかりと繋がっていることができたならば、そうであれば、私は自分の身体の望みそのままを言葉にすることができたのかもしれない。私が欲しいのは、あなたと一緒に新しい現実を創り出す過程だ。思い遣りや尊重を言葉で表現するなど、むなしいことだ。言葉はただの入れ物で、言葉で表したことが身体を通した表現に繋がらないのは表紙だけの本みたいなもの。

私はあなたと一緒にいた時間に「あなたと手を繋ぎたい」と言えたのに。そうすることで、ひとつひとつが始まるのだ。身体の衝動や情動を、それの発するそのままの振動のままに自分の身体から世界に表現することで自分のストーリーが始まり、自分のための言葉が生まれる。

私の肉体から湧き出る情動や衝動をどのようにしたらいいのかを指南するような資料なんてどこにもない。考えたって分からない。ひとつずつ現実の中に出来事を起こしていくしかない。受け入れられるかどうか、成就するかどうかなどを越えたところに、私の身体と情動を叶えるための、私だけの聖なるプロセスがある。このプロセスを体験するために私の身体がはここにあるのだ。


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