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言葉の重みとは


はじめに

今回はいつもと少し変わったテイストの記事になります。と言いますのも、今回は自分なりに言葉の重みや大切さについて書いていきたいと思います。みなさんも普段から言葉を使われていると思いますが、改めて文字にするとその重さというものがよくわかります。今では誰もが簡単に大勢の人に向けて言葉を発信できる時代です。そんな時代だからこそ言葉の重みや大切さについて書いていきたいと思います。


物を書くときに大切にしていること

言葉は何のためにあるか?という問いがあります。その答えは簡単です。自分以外の者にそのことを伝えるためです。言葉は相手に伝えるツールです。その中で相手への敬意であったり、他者への配慮であったりが含まれるのです。どんなだけ丁寧な言葉遣いをしても相手に伝わらなければ、言葉の本来の役割は果たせていません。言葉の重みや大切さは相手に伝えることで生まれます。相手に伝わらなければ、それが失われてしまいます。
Twitterなどでよく自分の文章に酔いしれているのだろうなという文章をよく見かけます。これは言葉の本来の使い方ではありません。その上、そういった文章は誰かに伝えようとしていますが、よく意味が分かりません。書き手は婉曲的な表現が日本語には素晴らしいと思っているのかもしれません。しかし、婉曲的な表現がいい場合とそうでない場合は時と場合により、日本語であろうが英語であろうがアラビア語であろうがどこの言葉であろうが、それは変わりません。隠すところと伝えるべきところの濃淡をはっきりさせてこそ、婉曲的な表現が生きるのであって、何でもかんでも婉曲的な表現にすればいいというのは日本語の意味を勘違いしているとしか思えません。
相手に簡単に悟られたくないが、どうしても書きたいというときはあります。その場合、何を悟られたくないかを伏せれば、それで事が足ります。そこに関わっている人なのか?そこで起こっていることなのか?それは書き手によって違うはずです。伏せたい部分を意識さえすれば、書く内容はおのずと決まります。人を伏せたければ、起こったことだけを書けばいいですし、起こってたことを伏せたれば、関わった人だけを書き、起こったことをぼかせば十分です。
婉曲的な表現を日本人が好むというは確かですが、すべてを婉曲的に表現しても相手に何も伝わりません。それで相手が頭が悪いからであったり、相手に理解する気がないであったりと考えるのは愚か者の所業です。一番伝えたいことが何かがわからないから意味不明な文章になり、相手に伝わらないだけです。つまり、伝えたいことが決まっていれば、ぼかすところと明確にできるところがはっきりします。



例えば、この絵で一番言いたいことは人によって違いますが、僕はリンゴを食べていることだと思います。なので、リンゴを食べることに焦点を当てます。この絵の説明をするときに「緑色の服を着た男の子が右手にリンゴを持って、美味しそうに食べている。そのリンゴは4分の1ほど食べたぐらいである」と言われたとしましょう。これが絵のない小説であれば、文字で完璧にその様子を描写できており、非常に綺麗な文章となります。しかし、これを誰に端的に伝えるのであれば、少し長いと思ってしまいます。この場合、「リンゴを食べている男の子がいる」と書くだけでその様子は伝わります。そこから男の子の様子であったり、リンゴがどれぐらいかじられているかであったりを書くことになります。僕は小説家ではないので、端的に説明をし、そこから詳細を書いていくようにしています。文章の構成上、逆にすることもありますが、原則は最初に概要を持ってくるようにしています。
それに対して、小説家はそのことを指す言葉を使わずにそのことを表現します。例えば、白という言葉を使わずに、「絹のように透き通った肌」と白を表現したり、「雪に反射した月明りが町を照らし、ひと月ぶりに寝静まった町をにぎやかにしてくれる」といったように明と暗のコントラストを表現するだけでなくその日が満月であることや夜遅いことを表現したりしています。小説の文章は少ない文字で多くの情報が詰め込まれています。何かついて自分の意見を書くよりも小説のような文章を書く方が難しいです。その最たるものが俳句や短歌です。少ない文字の中により多くの情報を詰め込み、雑多さを感じさせないことが文学作品の良さです。小説家や俳人ほど言葉の大切さを痛感している人はいないと思います。
伝えたいことを決めずにただ、だらだらと書いていてはまとまりのない文章にしかなりません。そういう文章は駄文と言われます。小説のような文章は一見長くだらだらと書かれているように思えますが、その描写を文字だけで頭に思い浮かべることができ、その情報量は他の文章と違います。Twitterの140字で端的に伝えられる人は伝えたいことが明確になっていますが、140字で言いたいことがよくわからない人は伝えたいことが明確でないだけです。伝えたいことをどこに入れるかで相手がどう捉えることになるか大きく変わります。Twitterやnoteで書きときに、相手に伝えることを意識しています。この意識があるかないかで読み手の印象も大きく変わると思っています。


話すより書く方が伝えやすい

話していて、何を言いたいかよくわからない人がいます。そういう場合は言っている本人も何を言っているか途中でよくわからなくなっています。かく言う僕もその1人です。しかし、これを文字にすると伝わりやすくなります。文字は言葉のように目に見えない媒体ではなく、目に見える媒体であり、しっかりと残る記録です。言葉は単なる記憶であり、時間とともに正確性が失われていきます。文字にすると、目で見える情報となり、言いたいことを明確にしやすくなります。そして、話すとき時と違い、文字にするときはその場ですぐに返す必要もなく考える時間があります。そこで伝えたいことを明確することができます。話下手=相手に物を伝えるのが下手とは限りません。文字にすれば伝わることはよくあります。
話していると頭の中に浮かんでいることをポンポンと言いがちですが、頭に浮かんでいることをそのまま文字にすることはなく、校正をして綺麗な文章にするはずです。話している時の言葉は校正する前の文章と思うと多少相手に伝わらなくてもそこまで気にする必要はありません。
しかし、文字にするときに注意することがあります。それは伝えたいことについて自分でしっかり理解していることです。僕の大学の先生がよく「本当に理解しているかどうかを見るときはその人の書いた文章を見る」とよく言っていました。多少の知識があれば、話すことはできますが、それを文字にするとなるとしっかりと理解していなければなりません。僕もこうやってnoteを書いていますが、今までに何度も書こうと思ってボツにしたネタがあります。それは自分がそのネタについて理解をしていなかったり、何を伝えたいかが明確でなかったりしたからです。文字にして相手に伝えるときは伝えたいことが自分の中で明確になっていないと伝わりません。言葉は相手に伝える道具であるにもかかわらず、その本人が何を伝えたいのか明確でなければ言葉の意味をなしませんし、言葉に対して失礼に当たります。
自分が何を伝えたいかを明確することで文字や言葉にしたときにその意味が初めて相手に伝わります。最初からかっこつけて意味不明な文章を書いたり、それを言ったりしても相手には伝わりません。その人が何を言いたいかが明確でないからです。ちまたにあふれる意味不明な文章はその人が何を言いたいが分からずに書いたものと思って構いません。文章はその人の中身を映す鏡ではなく、その人の考えていることを見透かせるレントゲンです。ある程度、物を書いたり、読む力があったりするとそういったことは造作もありません。伝えたいことを明確にするのは自分自身です。自分が分からないことは、相手はもっとわかりません。

最後に

言葉というものは相手に伝えるものです。その言葉を大切にしないと自分の言いたいことや思っていることを相手に伝えることができません。仮に発することができたとしても、うまく伝わりません。相手にすべてを伝えようとしなくても大丈夫です。自分の言いたいことや伝えたいことを伝えられれば、それで問題ありません。リンゴの絵で伝えたいことはリンゴがかじられていることであって、それを食べているのは誰で、どの手で持っているかは二の次です。数100ページあるような本でも伝えたいことは、限られています。伝えたいことの詳細を伝えたり、説得力を持たせたりするために数100ページを割いているだけです。伝えたいことが何かであるかを明確にして相手に伝えることが一番重要です。それが言葉の大切さであり、重みです。どのようなものでも本来の使い方が一番重要で効果的です。文字にするときは伝えたいことを明確にするところから始めましょう。

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