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何と呼べばいいのでしょうか?

はじめに


男女平等を求める動きがさらに加速している昨今。看護婦さんから看護師さん、保母さんから保育士さん、英語ではchair manからchair personと様々な名称に性別が付いていましたが、それがなくなりつつあります。これにより、女性が就くイメージの強い職業に男性が就くことや男性が就くイメージの強い職業やポジションに女性が就くことへの抵抗をへらすことに繋がったと言われています。僕の友達も保育士をやっており、その恩恵を受けていると思います。そんな今回は久しぶりにあの人に登場してもらい、ジェンダーフリーについて考えたいと思います。

男女平等?ふざけんじゃないよ!


御徒町万亀子(通称、おかま)さんがこの問題について書いていきます。職業に対する性別のイメージがなくそうとする動きは少し前からありました。これだけでは不十分です。いまだに日本社会は男性優位で、女性は虐げられています。女性の活躍を政府はうたっていますが、内閣にも国会議員にも女性の比率は非常に少ないです。これは男性が自分たちの地位を脅かされると思い、女性の邪魔をしているのです。つまり、日本に男性がいる限り、女性が活躍することはないのです。
女性が社会進出をすることは非常に素晴らしいことです。女性が家事をするというのは前近代的考えで、女性は社会に出るべきなのです。専業主婦はまさに男性の奴隷です。今すぐ解放しなければなりません。私たちは女性の自由のために戦うのです。その自由を求めようとするといつも男性に邪魔をされます。彼らは女性を侮蔑の対象としか思っていないのです。そんな野蛮な人たちがいる限り平和な世界は訪れません。
女性の地位を向上させて、男性を駆逐しなければ女性に幸せは訪れません。男女平等では甘いのです。男性劣位社会を作ることこそが女性の地位を安定させ、平和な世の中になるのです。男性に虐げられている女性を解放することがこの御徒町万亀子の役目なのです。令和の奴隷解放運動をし続けるのです。

まだ残っている性差を示す表現が!


職業に関する呼称はだいぶ変化していると書きましたが、まだ女性優位社会の確立はほど遠いです。皆さんは親御さんのことを何と言いますか?もし、父や母と言っているのであれば、直ちに訂正してください。なぜ男性の親が父で、女性の親が母なのでしょうか?これは男女平等の理念と逆行しています。なぜ、家庭に性差が残っているのでしょうか?こういったところから見直さなければ、日本のジェンダー意識は低いままとなり、世界から取り残されてしまいます。父や母という言い方が気に入りません。どちらかを指す必要はありませんので、親とだけ呼ぶようにしましょう。
父親と母親という表現は男女の親から子どもが生まれてくることを前提としています。ジェンダーフリーな社会を目指すためにはそういった前提があることを壊すところから始めなければなりません。今や結婚は男女でなければならないという考えは変わってきています。つまり、親が男×男や女×女でもおかしくないわけです。つまり、父親が2人いても、母親が2人いてもおかしくないのです。母と父が1人ずついなければならないというのは時代錯誤も甚だしいです。こういった前近代的考えが、日本を衰退させるのです。憲法で両性の合意がなければならないと規定されているんですって?そんなもの無視すればいいんですよ。いいですか、我々にとって都合の悪いものは排除するんですよ。我々が作り出しているものこそが良い方向へ導くのです。それ以外は悪なのです。

最後に


こういった女性の地位向上を目的とした運動をされる方に多いのは変な前提を作り上げることです。もっと言えば、自分の都合のいいような前提を作り上げて自分の主張を繰り広げます。今回は政治の場に女性が少ない事実を取り上げ、その理由を男性が女性を虐げているからとしました。そして、社会進出をしていない女性を奴隷と表現しています。事実をどう解釈しようが勝手なことですが、まず、女性に対する前提が間違っています。女性の社会進出が善で、専業主婦のように家庭に入っている人が前近代的で悪としています。女性がこうあるべきだという像を自ら作り上げ、それこそが正しいことのように主張しています。まるで幻覚を見ているのではないかと思ってしまうほどです。
女性にとって社会進出こそがすべてなのでしょうか?確かにバリバリ働きたいキャリアウーマンを目指されている方もいらっしゃいますが、おそらく全員がそういったことを思っているとは思えません。専業主婦は今でも女性の憧れと言いますし、僕の友達でも寿退社に憧れをいただいている子もいます。女性の社会進出こそが絶対善と考えて、活動をして迷惑を被るのは当の女性です。女性を男性の奴隷だとか男性が野蛮な生き物だとか勝手に決めつけるような罵詈雑言のデパートのような人たちが活動をすればするほど、両方からのひんしゅくを買うだけです。女性の味方と言っていますが、どう考えても女性の敵です。女性の地位を向上させたり、男女平等を目指したりするために男性をけなす必要は一切ありません。ありもしない対立構図を作り出すことに誰も快くは思わないでしょう。
女性がどういう生き方をしたいかはその人自身が決めることであり、ある人や団体がこうあるべきだと決めつけるものではありません。それは男性も同じでその人の生き方に口出しは無用です。口出しをするにしても、その人と本気で向き合う覚悟がなければならないと思います。生き方は人それぞれで多様性を尊重しなければなりません。女性像なるものがあるのはおかしいと言う一方で女性は社会進出しなければならないと新しい女性像を作り上げているのは明らかにおかしなことです。多様性を本当に重んじる気があれば、そういった新しい女性像への理解を求めることはあっても、それを押し付けることをしてはいけません。女性の新しい生き方を提唱したり、理解を求めたりしようとすることは非常に素晴らしいことですが、それで男性を卑下するようなことを言ったり、他の女性に押し付けたりするのは言語道断です。押し付ける行為そのものが前近代的です。こういった人たちには生物学的な性別と社会的性別の区別もなければ、人としての分別もないとしか思えません。


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