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小説には勇気がいるという話

つい先日、知識を得ることが目的じゃなければそれは本じゃなくてもいいということを書いた。

でもそれは読書に対する報復宣言ではなく、本を読むこと自体が好きな場合もあるよねってことを言いたかったにすぎない。


例えば、小説なんてのもその類だ。
小説を読む目的は知識を増やそう!なんて意気込むものではなく、ただ物語に触れて心を動かしたい、みたいなものだ。


心を動かしたいなんて書くとメンヘラっぽくなっちゃう気もするが(そもそも文章書く人間なんてメンヘラだけども)、もっと簡単なことでエンターテイメントというやつだ。
映画を見たり、音楽を聴いたりするように小説を読む。ただそれだけのことだ。

でも、それが活字が嫌いな人からしてみたら、とても崇高なものに見えるらしい。


いまだに、趣味は読書なんていうとガリ勉っぽく捉える人がいる。

まぁ、それはさておき、僕は小説も音楽も好きだ。


どちらも面白いのに、小説を読むとなると幾分かの気合いを入れなければ読むことができない。


どういうことかというと、理由は二つある。


まず、その小説が面白かったかどうかが分かるまでに時間がかかるということ。

音楽であれば一曲聴き終えるまでに長くても5~6分だ。
それが小説となると、何十倍もの時間を費やさなければならない。

その多くの時間を費やしたのに、読後感が悪いと少し残念な気持ちになる。
エンターテイメントだから、コスパとか効率さは抜きにして考えたいのだけれど、音楽と比較した時その差は歴然だ。


そして二つ目は、精神を持っていかれるということ。


これはどういうことかというと、面白い小説に出会ったら出会ったで、時間を忘れて読んでしまうということだ。
そして本を読んでいない時でも物語の登場人物のことを考えてしまう。


難儀なもので、つまらない作品に出会ったら、時間の無駄だと思って小説を読むハードルが上がるくせに、面白い作品に出会ったらそれはそれで、精神が持っていかれるから小説を読むのには勇気がいるよな、とハードルが上がる。

どちらにせよ、小説を読むというハードルが上がるのだ。


そして、好きな作家に出会ったら最後。
この作家の文体、物語が好きだから他の作品も読んでみたいと思うのだけれど、きっと面白いから精神を持っていかれちゃうだろなぁとハードルが上がる。

最近、僕が好きな小説家は三秋縋さんだ。

ヨルシカというバンドが好きで、ヨルシカの世界観に似た小説はないかと探していたら、三秋縋さんに出会った。

ヨルシカの詳細はここでは割愛するが、ヨルシカを知らない人は是非とも一度聞いてほしい。


そして、三秋縋さんの作品で僕が読んだ作品はこの二つ。

「恋する寄生虫」を読んで、あまりにも面白くて中毒性があり、続いて「君の話」を読んだ。


三秋縋さんの作品を読むと、僕はその登場人物に恋をしてしまう。


世間はやれ不倫だなんだのとゴチャついているが、僕は本の登場人物に恋をしてしまう。
厄介なことに本の登場人物となると、僕の想像も相まって、より好みの女性となって四六時中考えてしまう。


これはダメだ。

体の浮気よりも心の浮気となるとタチが悪い。

でも、一度この淡い気持ちを知ってしまったら、また次の三秋縋作品に手を出したくなる。


好きになっちゃうから読めない。


そんな葛藤を起こしかねないので、まだ三秋縋作品に触れたことがない人は絶対に読まないほうがいいです。


ちなみに「恋する寄生虫」は2021年に小松菜奈さん主演で映画化が決まっているらしく、原作を読んでもなお映像作品としても気になるところ。



どちらも好きな話だけど、おすすめとしては

いや、でも絶対に読まないほうがいいです。
中毒性があるので。




さて、本屋にでも行こうかしら。



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