新年を迎えるということ
年が明けた。
来年の如く、クリスマスの余韻が抜けぬ間に一夜にして街はすっかりと正月ムードになり、気づけば年が明けていた。
僕の心としては3日遅れだろうか、実家に帰り親族に会いようやく年が明けたと実感できた。
年が明けるということはどうやらめでたいらしい。テレビをつけるとタレントが袴姿で年始の仕事に勤しんでいる。
365分の1であることは変わらない。でも今年も無事に新しい一年を迎えることができたということなのだろう。わからないではないなと思う。
昨年の夏に祖父が亡くなって僕としては喪中だ。祖父が亡くなったことは寂しい。時々夢にも出てくる。
でも、こうして生きている家族が新しい一年を迎えれたということに感謝をしたい。
喪中の身でおめでとうと言うと不謹慎かもしれないが、こうして生きている人同士が挨拶をできるということは、それはやはりめでたいことなのだと思う。祖父も笑ってわかってくれるだろうと勝手に思っている。
でも、さすがに喪中なので今年は年賀状のやり取りは控えている。
事前に喪中であることは伝えてなかったので友人から年賀状が来たときは直接連絡をして挨拶をすることにした。
僕は元旦からソワソワと何度もポストを開けた。送ってもいない手紙に返事を期待するようでおかしな気もしたけど、それでも期待に胸を膨らませ何度もポストを覗いた。
例年なら年賀状なんて古い文化は面倒だと思う節もあった。新年の挨拶をするなら直接携帯で連絡をすればいいと思っていたからだ。
でもこうして、年賀状は送れないとなると来て欲しいという心境になる。
なんだかおかしな話だ。
しかし、期待とは裏腹にポストに届いた年賀状はたった2枚だった。
これが元旦ならまだしも、今日は1月3日なのにだ。
例年までやりとりしていた人からの年賀状が来てもおかしくないはずなのに、今年は2通しか来ていない。
おそろしい人望の無さだと思いつつも、きっとみんなも喪中なので送ってこないだけだという謎のポジティブさで自らをフォローをしている。
いや、それはやはりおそろしく人望がないだけかもしれない。
あまり深い意味があるのかないのかは知らないがやっぱり少し寂しいので毎年年賀状を貰っていた人には明日連絡をしてみようと思う。
何気ない会話でも近況報告でもなんでもいい。それが年賀状だろうと電話だろうとなんでもいい。
生きている人同士が挨拶できるということはめでたい。
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