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検察庁のいう「裁判」が思ってたのと違う件【ニッチでもない法律解説】

検察庁HPの「チャイルドページ」の記載が一部で話題になっています。

この「チャイルドページ」、率直にいってひどいです。ふだんは細々と「ニッチすぎる法律解説」をしている私ですが、あえて「刑事裁判制度」というレッドオーシャンに踏み込もうと思います。

どこがひどいのか、私なりに解説します。

裁判っていうのはね

図11

このページでは、「裁判って何?」と題して、刑事裁判を説明しています。

冒頭の説明は、

裁判っていうのはね,裁判所で,裁判官が罪を犯した人に,どんな罰を与 えるかを決める仕組みなんだ。

と記載されています。

違います。もう一度言います。違います

裁判所HP(ただし、子ども向けではない)の説明と比べてみましょう。

裁判所は,起訴状に書かれた事実が本当にあったかどうかをいろいろな証拠に基づいて判断し,被告人を有罪と認めたときは,どういう刑罰を科するかを決めます。

検察庁の説明は、「裁判所は,起訴状に書かれた事実が本当にあったかどうかをいろいろな証拠に基づいて判断」するという、刑事裁判の根幹的な部分を説明していません。

一方的な説明となり、「裁判=罰を与える」という、明らかに誤った説明になってしまっています。

子ども向けの説明だから許される?

子ども向けの説明なので、このように簡略に説明することが許されるでしょうか。いえ、許されません。

もちろん、わかりやすく説明するために、表現を工夫したり、ディテールを省略することは有用でしょう。しかし、検察庁の説明は、裁判のコアの部分の説明を割愛するものです。

その結果、これを読んだ子どもは、「検察官が起訴した人=犯人」と刷り込まれることになります。

そのような目で被告人をみることが妥当でないことは、いうまでもありません。子ども向けだからこそ、偏った説明ではなく、公平な情報が与えられるべきではないでしょうか。

検察庁の説明は、子ども向けだからといって許される「要約」の範囲を明らかに超えています。

ポジショントークだから許される?

検察官は犯人だと断定して起訴するわけだから、こういう表現になるのも仕方ない、という見方もあるでしょう。

しかし、それも誤りです。

検察庁法4条は、検察官を「公益の代表者」としています。公益の代表者というのは、全国民の利益を代弁する立場ということです。現場の検察官も、しばしば「公益の代表者として」ということを述べます。

検察官は、刑事裁判において、単なる当事者ではない、とされているのです。

したがって、ある事件で無罪と判断されることが「公益」にかなうならば、それを積極的に受け入れることも、検察官の職務のうちであるといえます。

最高検が2011年9月に公表した「検察の理念」でも、

あたかも常に有罪そのものを目的とし,より重い処分の実現自体を成果とみなすかのごとき姿勢となってはならない

と謳われています。

刑事裁判が有罪前提であり罰を科す制度と説明することは、検察庁のスタンスと明らかに矛盾しています。

「裁判にかける」は間違い

検察庁のページは、

検察官が犯人を起訴して,裁判にかけるんだ。

とも言っています。「犯人」だと断定している点の問題は、上記のとおりです。ここで述べたいのは、「裁判にかける」という表現です。

「チャイルドページ」では、これ以外にも、

「検察庁っていうのはね,・・・犯人を裁判にかけたりするところなんだよ」(検察庁って何?
「検察官は法律に違反した犯罪や事件を調べて,その犯人を裁判にかける,とても重要な仕事をしているんだ」(検察官って何?

などと記載されており、お気に入りの表現のようですが、端的に言って間違っています。

刑事裁判で審理されるのは、「公訴事実」です。公訴事実というのは、被告人が犯したとされる罪の内容で、検察官が起訴状に記載したもののことです。

たとえば、「被告人は、令和2年7月18日、A県B市C町1-1のコンビニエンスストアで、同店店長が管理するおにぎり1個(販売価格110円)を窃取した」といった具合です。

検察官が被告人に対してかけている疑いを、具体的に記載したもの、と理解すればよいでしょう。

刑事裁判は、この公訴事実があったと認められるかどうかを、証拠に基づいて判断するものです。公訴事実を証明する責任は検察官にあります。

このように、現代の刑事裁判は、「人を裁判にかける」ものではなく、「検察官の主張が正しいかどうか」を問う手続になっています。

大胆に言うならば、「裁判にかけられている」のは検察官(の主張)であり、被告人という個人ではありません。

憲法は、

何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない(32条)
すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する(37条1項)

と定めています。裁判を受けることは、国民の権利です。

「検察官が起訴して裁判にかける」という表現は、憲法や法律の定める刑事裁判の位置づけを捻じ曲げるものです。

弁護人や裁判所の役割も書いてあるから許される?

検察庁のページでは、上記で引用した部分に続いて、以下のような記載もあります。

逆に,弁護人は,被告人のために,その言い分を裁判官に述べる立場なんだ。
例えば,「被告人は本当は犯人ではない。」とか,「軽い罰を与えるべきだ。」ということを主張するんだよ。
そこで,裁判官は検察官と被告人・弁護人の言い分をよく聞き,判決をするんだ。

この記述自体に誤りはありません。

しかし、冒頭では、「裁判は、罪を犯した人に、どんな罰を与えるかを決める」、「検察官が、犯人を裁判にかける」と言ってしまっている以上、弁護人が、「被告人の言い分」として「被告人は本当は犯人ではない」などというのは、いかにも白々しいです。

「という立場なんだ」というのも気になります。立場上、仕事なので、仕方なく無罪を主張しているかのような印象を与えかねません。

このように記載するならば、そもそも、刑事裁判が「検察官の言い分」から始まることを説明しないと、バランスがとれません。

より根本的な話

検察庁がこのような説明をするのは、検察官の訴追判断に自信があるからでしょう。もちろん、自信を保てるだけの捜査を、熱心にしているのだと思います。

その自信はすばらしいことです。

ですが、自信が過信になり、それが唯一無二の正解かのようになってしまうのは問題です。

それは一つの「主張」でしかなく、また、後日別の機関(裁判所)によって覆される可能性があるものだ、そのような制度になっているのだ、ということを、十分に理解しておかなければならないと思います。

チャイルドページを見て、検察庁の「おごり」のようなものを感じたのは、私だけでしょうか。

最後まで読んでいただきありがとうございました。
よろしければ、WEBサイトもご覧ください。


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