何もしないという選択

内閣の支持率調査が行われると、問題に対して何もしていないから。あるいは何の説明もしていないからという理由が不支持の理由になることがよくある。
これは行政に限った話でなく、一般的に仕事とは何もしていなければ問題になるわけである。
私は連休最終日に何もしなかった。
これは意図して何もしなかったわけではなく、結果として何もしていなかったのである。もちろん本来の意味で何もしなかったわけではない。当然、最低限度の生活の為に必要な家事や、食事をはじめとする生命維持活動は行っている。何もしなかったというのは心の持ちようの話である。
日常系というジャンルの作品が世には数多く存在する。これも本来の意味で日常を描いてしまうと何の面白みもない人の営みの連続になってしまうこと必至である。ただ実際には面白みのあるイベント事を描こうとしていながら、何の面白みのない作品になっているものも残念ながら多い。むしろそちらの方が日常系という名の通りのリアリティがあるというのは皮肉なことである。
では何をもって“ある”という心の持ちようになるのか。目的を達成したかどうかが大きいと私は思う。
今日は本当は梨を買いたかったのだ。

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