サウナ気分

朝、妻が言った。
「今日夜外で会食あるから」
まだ冴えない頭。半目で見つめる先で彼女は続けていう。
「夜ご飯1人で食べてね。味噌汁の残り冷蔵庫にあるから」

仕事をしながら考えた。ならば夕飯何を食べようかと。とりあえず迎えが必要になるようなら連絡してくれと妻にはLINEしておいた。帰ってくるのはきっと早くても22時といったところだろう。迎えに行くとしても私の自由な時間はかなり長いそう思うと心が踊った。

週末なのでそれなりの疲労感もあるし、なんなら平日の夜だけどサウナに行こうかと思いついた。広い湯船に浸かって、サウナに入り、涅槃に近づけるならば、それ以上の幸いはあるまい。ついでに何かラーメンでも食べられれば大変贅沢ではないか。

夜、仕事を終えて職場を後にする。以前はこの魂の解放をプリズンブレイクと呼んでいたが、近頃はその解放感すら覚えない。刑務所も住み慣れてしまうものなのが悲しい人間のサガだ。

自宅に着くと19時過ぎだった。まず前提として、肩周りのトレーニングとジョギングを行わなければならない。ルーティンを崩してしまうことは後の大いなる甘えに繋がるのである。また認知がある間は続けなければならない。また、体を動かすことで後に控えるサウナの満足度が上がると、古くから私に信じられている。

健全は精神は健全な肉体に宿るというが、運動をこなしたところで今朝の妻の言葉が俄かに思い出されてきた。私は敏捷な動きでもって、冷蔵庫の扉をを開けたものである。そしてそこにおわします鍋と対面を果たした。

ここで味噌汁を飲まなければどうだろうか。私は逡巡した。妻が味噌汁を飲まないことで怒るということは考えづらい。かと言ってこれは怒られる怒られないの問題ではないような気がした。ここで味噌汁を飲まないということは、外食をしたということがほぼ確実に妻の知るところとなるであろう。前述のように妻がそれで機嫌を悪くすることはまずないという信頼を置いているが、用意してもらった好意を無碍にしてまで優先すべき欲なのだろうか。このラーメンは。そんなことはないはずだ。だがこの問題が解けなければ私は私を導いていけないのだ。そう思った私は自分のラーメン欲を完全な形で成就するために一つの答えを出した。味噌汁を飲むのである。飲んだ上でラーメンを食べに行くのである。私が追い求めた楽園、シャングリラはそこにある。一連の流れの全てが食事であり、食事とは生きることである。味噌汁を温めてから器に移して、熱々の味噌汁を飲んだ後近所のラーメン屋に行って注文をして、ラーメンを食べる。そこまでが食事である。人は動作を区切って考えてしまいがちであるが、人生は連続した選択と動作の集合体である。因果の輪廻に囚われようと、残した思いが扉を開くのである。ありがとう大グレン団。

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