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きみになりたい。

 枡席でクラブのホステスをはべらせ、国技館名物の焼き鳥をつまむ矢田部のスノビズムは、彼が理想とする、いささかステレオタイプな作家像をよくあらわしている。白髪をやわらかめになでつけた着物姿の彼の顔には深い皺が刻まれており、目元は窪んでいる。いかにも昭和の老文士といったそのルックスは、中村明日美子的な、いわゆるイケオジの溝呂木と同世代だとは一見信じがたいほどだ。
 溝呂木が姪のコヨミに昔話を読んで聞かせた夜のシーンからして、二人の年齢は、いっても五〇前後だろう。物語の終盤で、矢田部はコヨミに作家のアイデンティティについて語る。書けない作家は作家じゃない。それはおれたちにとって自分が自分でなくなることと同じことなんだ(『紅の豚』の世界)。しかし、ひと口に「書く」と言っても、矢田部と溝呂木とではそれぞれにちがった営為だった。溝呂木のように作品世界にアイデンティファイすることを理想とするのではなく、矢田部は自らを小説家としてキャラクター化する道を選んだ。初めから文壇(坪内祐三に言わせれば、既に存在しないもの)に憧れがあったのか、知らずのうちに業界の水になじんだのかはわからないが、あの老けようが本人の努力によるものであることは間違いない。
 矢田部の絵に描いたような気取りは多分に他者の目を意識してのもので、夜の街の住人や編集者、読者にとってはサービスにもなるのだろうが、溝呂木には目障りに映る。読者の私には、ナルシシズムに裏打ちされた諧謔が、ある意味で、救いの手にも見えた。作家・溝呂木瞬のセルフイメージなんかうっちゃってさ、ひとまずはセンセイ然としてラクにしとけや。
 畢生の傑作なんて連打できるものじゃない。じゃなきゃ岡村靖幸の長い沈黙もなかった。職業作家としての、今様に言えばライフハックを矢田部は早くに身に付けていたのだろう。一定のアベレージを境にして、じっと浮き沈みをくりかえす。顔は道化ていても、水面下のバタ足のしんどさは同業者にしかわからない。
 矢田部は自らを、妄想を翻訳するだけの第一次産業の従事者と見なしている。そうした認識は、表現者としての苛烈な自負の裏返しでもあるし、自己形成に大いなる影響を与えた先達へのリスペクトや、たかが物書きだろうw という自嘲もコミコミだ。アンビバレントな感情を平然と捨て置ける神経がなくちゃ作家業は務まらない。のか?
 文士らしい女遊びで気をまぎらわせようにも、インポテンツの溝呂木にはそれができない。同居するコヨミの存在もストッパーになっている。彼女の純粋なまなざしは溝呂木の倫理でもある。
 女性こそが最大の他者である、というのはクリシェだが、セックスの悦びを知らないおのれには、やはり引け目を感じる。矢田部の振る舞いがいつも頭にチラつく。そんな溝呂木の心の隙間に、朱と桜は忍び込んだ。
 
 『ウツボラ』はワナビーたちの物語として読むことができる。あこがれが全てを動かしてゆく。ルックスだって変えられる。欲望と向き合うにも覚悟が必要で、場合によっては命がけだ。事件を追う初老の刑事(実写化の際には吹越満でお願いします)のつぶやきを聞くべきは、相棒の海馬だけじゃない。
〈どうしようもなく生まれて どうしようもなく生きて それはどうしようもない人生なのかねえ〉

〈僕は君が羨ましかった 君のようになりたかった〉という、溝呂木から矢田部への告白も、刑事に言わせれば潔癖すぎるのだろう。コヨミだって、大好きなおじ様とずっと一緒にいられればそれでよかったのだ。しかし、溝呂木は小説家としての僕として死んだ。朱と桜との共犯関係を全うし、朱は小説の中で永遠に生きる。桜は溝呂木にとって最初で最後の女で、彼の子供を宿した。命をやり取りする、デモーニッシュな終いの仕事。桜との一夜を過ごして、小説家・溝呂木瞬はよみがえり、朱の世界に自分の声を吹き込むことが出来た。
 口髭を剃り落とし、オトナの仮面を脱ぎ捨てた無防備な溝呂木の笑顔をコヨミは知らない。彼の墓参りに来た身重の桜とすれ違うショットで、物語は終わる。やくざと素人の水が交わることはないのだと、密かにコヨミに告げるかのようにして。


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