夜の汽笛
暗闇の中に、ボーと船の汽笛が鳴り響く。
時計は深夜0時をまわったころ。ボー、ボー、と太い音がリビングの片すみから聞こえてくる。びっくりして見てみると、木でできたパズルのおもちゃだった。
飛行機はブーン、ヘリコプターはパラパラパラ、消防車はカンカンカン…… と、ピースをはめたらそれぞれの音が鳴る仕掛け。
でも、このときピースははずれていたのに、どうして鳴ったのだろう。
◇
私の部屋では、夜、ひそかにささやくものたちがいる。とろんとした微睡に包まれた本棚から息づかいの音が聞こえて、やがてそれらはこっそり持ち場をはなれ、思い思いに夜をさまよい始める。
『ライ麦畑でつかまえて』、『トムは真夜中の庭で』、それから、『つきがいちばんちかづくよる』…。
———彼らは夜を泳ぐ。ニューヨークの街を闇雲に。密集したバラの棘をかいくぐって。自分だけの月を見る場所をさがして。暗がりでも見える目で。
そんな妄想を楽しみながら、私は文章を書く。ほんとうは夜明けの青や、朝の光の中で書くほうが好きだけれど、いまの私の生活にあるのはこの時間だけだから、しかたがない。
みんなが寝静まった部屋は、しいんとしていて、小さなガラクタが散らばって、サーカスの一団が去ってしまった後みたい。
夜は、夜にしか通れない道がひらけている。まだ知らない道を行く時、右に曲がったり左に曲がったりするのは楽しいけれど、ぐるぐる迷わせておいて、最後に舌を出すようなちょっと危ない道もある。
優しいオレンジの灯りが、まあるく私の手元を照らしている。水は透明なボトルのなかで甘い蜜のような紅茶色に染まっている。私はなるべくその安寧のそばを離れないように、ゆっくりゆっくり進んでいく。
◇
そろそろ1時になろうとする頃、私は眠気にほとんど支配されている。
Oamoghpaoesmocoheoanoslkda;s,;s,sssssss…
学生の頃は居眠り中にペンの先がすべって、ノートにそよ風の模様を描いては友人に笑われたっけ。いまはそよ風どころか、指先がキーボードに触れて、こんなデタラメな暗号。
どうしても、内側から外側に出さずにはいられない小さなお話たちが私にはある。
たどたどしく書いてみるものの、その翌朝、物語がいま私の出せる限りの言葉に閉じ込められて、窮屈そうにうずくまっているのを発見して落胆する。ドレミをさかさまに歌った歌みたい。あるいはデタラメの暗号そのものみたい。
でも繰り返し続けるしか選択肢はない。物語はいくらでも書き直すことができるという希望が私にはあるし、書かないまま無かったことにするほど、罪深いことはないのだから。
◇
私は部屋を暗くしてベッドに横になる。本棚から抜け出した一行はまだ戻ってくる気配もない。
その時、濃い闇のなかで、ふたたびボー、ボーという音がした。パズルのピースはやっぱりはずしたままだから、鳴るはずもないのに。
ぼんやりした頭の中でパズルをやってみる。子ども向けの木のパズルはとっても簡単で、目を瞑っていても出来そうな気がする。同じかたちのものを充てがうだけ。隙間なくぴったりと合わされば問題はない。
ふと思う。
それはほんとうに簡単なことだろうか?
たとえば、外側に出したい熱情を文章で表現すること。反対されてもやりたい物事を続けること。あるいは落ち込んでいる友人にかけるべき正しい言葉。いまほんとうに行動するべき事柄に時間を割くこと。
ただそこへ求められているものを、求められたかたちで、たとえ暗闇の中であっても、純粋にまっすぐ充てがうこと。
私はずっと長い間「書くこと」を始められなかった。
そのたったひとつのピースをはめることすら、とても難しかった。
◇
もうすでに夢の中なのだろうか、間を置いて汽笛が、ボー、ボー、ボー、と、最後に3回。
それは眠りの向こう、夜の向こう、遠い海の向こうから運ばれてくる音だ。すこし丸みを帯びた水平線。空にむかってゆっくりと昇る白い煙。まぶしい陽射しと、じわじわ上がってくる体温。
———もしこの文章を読んでくれているあなたにも、かすかにその汽笛の音が届いたなら。
———そして、本棚の友人たちの空想話も笑わないで聞いていてくれた、あなたになら。
それは船出の合図だ、と私は思う。
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