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ジョーカーと旅を/Stand by me

名刺に「旅行中」と書いた女の子の小説を読んだ時から、いつかそんな生き方をしてみたいと思っていた。『ティファニーで朝食を』のホリー・ゴライトリー。

夜ごと空を見上げる人が北極星にひかれるように、美しいものを見たい人が虹のたもとにひかれるように、私は大学を卒業した年、ニューヨーク行の飛行機に乗っていた。

でも、じつは、ふりかえれば社会に出たばかりの友人たちがキラキラと羨ましく、おそるおそる自分の中を覗き込んだら虚無を感じた。だから前だけを見て行くしかないそんな旅の始まりは、ホリー・ゴライトリーが旅に出た理由とはほど遠かったのだけれど。

「留学… ワーキング・ホリデー… つまりは、自分探しなんだね」

ひややかな笑みは外から、そして同時に自分の内にも存在していた。正直なところ挑戦したい夢はあったけれど、心の声は聞こえないふりをしていた。生まれた時からあらゆるものが欠けている気がしていたから、何かを望んでうまくいくなんて、そんな予感は私にとって贅沢品だった。

『Olive』のモデルのおねえさんの真似をして、アニエスベーを着てプラム色のネイルを塗っただけでは、匂い立つような都会的な毒っぽさは出なくって。除光液であこがれをぬぐって、ため息をつく。自分のことを、何をするにもあか抜けない女の子だと思っていた。いつだって、何かが足りない。

たとえばそう、枚数の欠けたトランプ・カードみたいなもの。1から13まで揃っていない私のカードでは、ゲームだって占いだってまともに出来やしない。

悪魔のジョーカーがニヒルな笑みを浮かべる。必要な時に限って「行方不明中」の、自由気ままな流浪人。

そんな私のことだから、ともかく、勉強とも遊びともつかない旅だった。

……もちろん、後悔なんてしていないけれど。

幾つかの外国を通りすぎたあと、自分の中にあるなにかが化学反応を起こしていることに気がつく。ふと見かけた光景、感じた色や匂い、肌ざわり。はっきりとまだ言葉にはできないそれらのインスピレーションは、しっかりと記憶に焼き付いて私の一部になった。

一年後帰国し、就職した会社では、火にくべられたポップコーンのようにめまぐるしく働く日々だった。しばらく旅のことを思い返す余裕はなかった。でもその仕事は私の人生における小さな「達成」の一つでもある。多くの外国人たちと一緒に同じゴールを目指すという、素晴らしい体験ができたのだから。

けれど、私のトランプ・カードはいまだに不完全だ。どうやら私の旅は、欠けているカードを得るための物語ではなかったらしい。

手に入れたカードをシャッフルして一枚めくれば、もしかしたらロールシャッハ・テストの模様みたいな抽象的な絵が出てくるかもしれない。

気づくと私は、そのわけの分からないかたちを、記憶や想像から掬い上げて言葉に変換する仕事、つまり「伝える」ということを始めていた。文章を書くこと。それこそが私が長年封印してきた夢だった。そう、あの夜の闇を静かに前進する、ニューヨーク行の飛行機の中からずっと。

たっぷり時間をかけて、旅の記憶を選び出す。それらは現在の私とむすびついて、きれいな色のセロファンを透かしてみるような美しい光の情景を織りなす。

トランプの兵隊たちのカードはやっぱり欠けているけど、人生を強固にしてくれるのは彼らだけじゃない。

自分だけの色、自分だけの心で書いた言葉のカードがあれば、どんなゲームも楽しめるってことが分かったのだ。

今宵、一枚めくると、気まぐれなジョーカー。

いままでも、これからも、よるべない旅路を何もたずねないでついてきてくれるのは、きみなのかもしれないね、なんて。

私はまだ映画の『ティファニーで朝食を』を観たことがない。原作とちがう結末に驚くと聞いたことがあって、なんとなくその機会を持てずにいる。

でも、結末なんて知らなくていいのかもしれない。どこへ着地するかわからないからこそ人生は自由で、素敵だ。

リトル・ブラック・ドレスに身を包み、恋のうわさが絶えないホリー・ゴライトリーのようにキュートでもハンサムでもないけれど、会社をやめてフリーになった私は、同じく人生を「旅行中」といえる身になった。

いや、もしかしてもしかすると、「行方不明中」なのかもしれないな。

星の香りの夜、屋根の上であくびをしている、とんがり帽子のきみと一緒に。





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読んでくださってありがとうございます。She isさんの先月の特集「#旅に出る理由」の公募のために書いたコラムを、すこし書き直したものです:)

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