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「噂通り、一丁目一番地」 第二話

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第二話 「ELEVENSESイレヴンジズ

アンティーク店『ザ・ヴィンテージ・スピリット』の店主は、仕立てたスーツに身を包み、撫でつけた白髪頭にツイードのハットを被った。タクシーはじきに着くだろう。とうに暮れた空に、月はあかるかった。

新調した老眼鏡はよく似合っている、と彼は鏡の前でいくらか自信を取り戻し、店内をぐるりと見渡した。

天井からぶら下がったいくつかの明かりの芯に、ほのかな淡いオレンジの灯りがともっていた。整理整頓され、磨き抜かれた品々——アンティークや、ヴィンテージと呼ばれる逸品 ——は、このような弱々しい照明の下でも、凛と光り輝いている。彼の目は誇らしげにそれらを通り過ぎ、やがて作業机の上の写真に行った。

古びた額装の、セピアに色あせた写真。若い女性が赤ん坊を抱いているその写真を、老人はとりわけ優しく慈しむように眺めた。

こうしていると母子が、まるですぐそばに来てくれたような気がしてならなかった…… 遠い遠い世界へ行ってしまったのだから、まさかそんなことがあるわけはないが。

記憶の底からもったりと湧いてくる生ぬるいもや。その中を赤いエナメルの靴をはいた幼子がはねるように駆けていく。女の子も、その母親も、やがてみんなその靄がのみこんでしまった。残っているのは自分だけだ。

カタン、と耳慣れない音が響き、老人の幻想はかき消された。

この家には今、自分一人しかいない。なのに奇妙なことに、あちこちの物陰から、息をひそめた何者かに見つめられている気配がする。

ジジ……とオレンジ色の電球が空気を震わせ、マホガニーの家具がきしむ。

誰かが歩いている…… 幻想の続きなのだろうか? 所有者の魂が宿ったアンティーク品を持つと、亡霊を見るという。いや、そんなものは妄想混じりの噂話だ。部屋をもっと明るくしようと、彼は壁の方へ歩み寄った。連日の冷え込みのせいで足が思うように動かず、杖をつく手がもどかしい。

また聞こえた。やはりあれは足音だ……。まるで歩くのを覚えたばかりの子が、トコトコとおぼつかない足取りで近づいてくるような。あの子は歩き出すのが早かった。目に映る全てのものが生きる喜びと言わんばかりの瞳。かけがえのない娘と孫をいっぺんに失った晩は怖いくらい冴えた月が浮かんでいて、とすると自分が召される時も月のあかるい夜なのかもしれない。

今宵のように。

彼は壁にやっと手をつき、呼吸を整えた。

湿った呼気が暗がりに溶け込んでいる。ささやき声と音の中間に位置する何者かの気配が、水位を増してヒタヒタと迫りくるのを感じる。唐突な底冷えを感じ、背筋がぞくりと波打った。

ふうっと吹き消されたように、最初の明かりが消えた。

それからひとつひとつ順番に消えていった。あと三つ。あと二つ。暗闇が足元を抉りながら近づいて来る。もう少しだ。すぐそこまで手を伸ばせば、最後の一つが消える前に間に合う……。

振り返る選択肢はなかった。何か重たいものがふりおとされる音がした時、暗闇の中で自分は消えることなく、むしろより強固な存在となるのだと、そんなことを彼は思った。

「まずはどれでも、好きなのを選んで」

土曜の11時前、出勤した凛が喫茶店のドアを開けるなり、夜船さんはきびきびと命令するように言った。

店内には自然光がたっぷりと差し、どの席からでも海が見えた。冬の終わりの海は青とも緑ともつかない曖昧な色で、テーブルに小さく活けられたミモザの花と、絶妙なコントラストで調和していた。この素晴らしい眺望の清潔な空間のすみずみまで、夜船さんの流儀が行き届いていた。

たった今、入ってきたばかりなのに——と思ったけれど、目の前の一皿の華やかさが、すぐにそれを忘れさせた。

砂糖衣をまとった焼き菓子、ビスケットにスコーン、それから薄切りのキュウリをはさんだサンドイッチ。どれもみんな、ちょっとかじってみたいと思うような美しい一口大に揃えられ、優雅なカーヴの白い皿に映えていた。

「イレヴンジズのお客様用に、新しいメニューを考えたの」

「イレヴンジズ?」

「午前11時のティ・タイムのこと」

夜船さんはお客にもそれを勧めた。客はまばらに入っていて、それぞれのんびりと紅茶を飲んでいた。窓ぎわの席で編み物にいそしんでいる女性は、最近よく顔を見るようになったひとり客だ。

夜船さんはテーブルを回り終えると、自分でも何か一つ口に入れて目を細めた。たべてから、独り言のようにつぶやいた。

「スイート(甘味)とセイヴォリー(塩味)。それら両方を知らなくては、生きていても生きていないようなものだ、ってね。でも配分が難しいな。それぞれみんな、好みがあるだろうから」

凛にはよくわからなかったけれど、要はいろんな味が楽しめるメニューなのだろうと推測した。それから、夜船さんがこうも続けたので驚いた。

「まだ選んでなかったの? ぼやっとしてたら無くなっちゃうじゃない。あなたって、椅子取りゲームで最後に残るタイプよねえ」

夜船さんは時々、どきりとするほど鋭い。一年生の時だ、と凛は思い出した。隣の席になった男の子にも全く同じことを言われた。誰かが最後の一人になるまで続く椅子取りゲームは、子どもの頃からずっと息苦しくて嫌いだった。そんなだから、他人の目にはぐずぐずしているように映るのだろう。凛はつい反射的に、

「椅子取りゲームで負けたことはないです」

と答えた。

「だから、そういうとこよ」

「どういうことですか?」

「すぐむきになるとこ」

ますます腹が立ってきたが、凛が反論する言葉を見つけるより、夜船さんがひらりとキッチンへ逃げ込んだのが先だった。しゅんしゅん、と湯沸かしの心地よい音が聞こえてくる。ポーと燃えるコンロの青い炎に向き合う夜船さんは、もう自分だけの世界の中にいる。

気まぐれな少女みたいでも、やはり彼女は大人だった。大人というのは、読み取れない何かを必ず瞳の奥に隠している人だ。そして夜船さんの瞳から伝わってくる温度は、とても触ることなど出来ない冷たさをはらんでいる。

「誰からも見捨てられた私に、こんなこと言う資格ないんだけどさ」

かつて夜船さんの口からぽつりと出たその言葉には、他人を立ち入らせないニュアンスが含まれていた。触れるべきではないと、そのくらい凛にもわかっている。でも、どうしても知りたかった。触るべきではないとはっきり理解しながら、ゆらめく青い炎にちょっと触れてみたくなるように。

東京から来て、「噂通り一丁目一番地」でひっそりと喫茶店を営んでいる夜船さん。凛の知っていることは結局のところそれだけで、あとは秘密のベールに包まれていた。

夜、凛がアルバイトから帰宅すると、母がソファでブラック・コーヒーをすすりながら待っていた。母の不機嫌から推測すると、どうやらまた父と電話で話したらしい。

「お父さんは、あの日は仕事が入ったから来れなかっただけで、会いたくなかったわけじゃない、なんて言ってたけど、どうかしら」

凛はぼんやりと考え事をしながら、曖昧な返事をした。

会いたくなかったわけじゃない、か。でも「会いたかった」わけでもないんだ——思いがけず飛んできた小石が、心の弱い場所にコツリと当たって痛い。夜船さんなら、と凛はふと思う。何の躊躇いもなく「見捨てられた」と言うのかもしれない。言葉を濁さず、ストレートに。

臆病な自分と違って、夜船さんは強い。いつだって己の考えに確かな自信を持って堂々としている。それを思うたび、凛は自分の幼さに直面せざるを得なかった。父と母は離婚の話を進めている。でも自分はいつしか話し合いの輪から外れ、片隅に追いやられていた。

「お父さんなんて一人で寂しく生きていけばいいのよ、って思っちゃった」

本気とも冗談ともつかない口調の母の気持ちを、凛はわかるような気がした。見捨てられることとと見捨てることは、どちらの痛みが少ないだろう。椅子取りゲームの敗者決定戦なら、一人取り残されないために誰かを残さねばならない。やっぱりあれは、残酷な遊びだと思う。

凛はようやく決心を固め、「ほんとうだね」とつぶやいてみた。ため息のような声は全く勢いがなく、母の耳に届いたかどうか、判別できなかった。

午前11時のティ・タイム。夜船さんがイレヴンジズを始めて間もなく、上品な常連客の老紳士が喫茶店を訪れた。

タータン・チェックのマフラーを椅子の背にかけ、Reserved予約席に腰を落ち着けた彼は、凛を見るなり言った。

「どうかね、調子は」

ええと……、と口ごもる凛の後ろから、「ほんとに、くそまじめな子なのよ」と夜船さんの声が飛んでくる。「アール・グレイに温めたミルクを注いだりするの」

「それは私の好むところではない」

そう口では言っても、本気ではないという顔で老紳士は苦笑した。

今はアンティーク店を営んでいるこの老紳士は、昔、丘の上にある女子大の英文科で文学を教えていたらしい。身のこなしに知性の感じられるさまや、若者を見る目がやや説教じみている感じは、まさに大学教授の職が似つかわしかった。

この老紳士を見るたび、凛は羨ましく思う。人生の黄金期にある人たちはきっと、若い人特有の葛藤や悩みに、もはや煩わされることも痛みを感じることも無いのだろう。時間に追われず、あくせく労働することもなく、午前11時にゆったりとお茶をのむのだ。

しかし、その日の老紳士は何かが違った。

穏やかな物腰は変わらないが、顔色が冴えず、口数が少なかった。お茶を飲む手が震え、絶えずカチャカチャと茶器の擦れ合う音が聞こえてくる。少しけたように見える頬は、彼の印象をいっそう老けこませていた。

しばらくして老紳士が席を立った時、どうぞと夜船さんが差し出す手を見たら、包み紙にくるまれたパウンド型のものがあった。

「バナナブレッドを焼いたの。お孫さん、お好きなんでしょう?」

鼻先をくすぐる優しい香りに、幼い頃読んだ絵本のピクニックの場面をふと思い出した。車に積んだバスケット、春の草原に広げられたご馳走。

「これはこれは。娘と孫娘が喜ぶよ。甘いものは大好きだから」

彼は、唇の両端をわずかに上げた。そこには心からの感謝の念があったけれど、微笑みというにはあまりにも頼りない表情を刻んでいた。凛は老紳士の体調を心配しながらも、彼が店を出てゆくのをただ眺めた。高校生の凛にとって、こうも歳の離れた人の事情を想像するのはたやすいことではなかった。

夜船さんは老紳士のことなど全く気にしていない様子で、おかわりのティーポットを窓ぎわのお客へ運んでいき、そこで世間話を始めた。編み物をしているその人のテーブルには、まっ白いひよこみたいな、ふわふわの毛糸玉がころがり出ている。来週姪が生まれるの、とその人は言い、夜船さんは、いい毛糸ねと返した。仕事をしている時の夜船さんは、ただ幸せそうだった。

翌週の土曜の朝、出勤すると、夜船さんがバナナブレッドを焼いていたので手伝った。彼女は一週間姿を見せなかった老紳士を心配し、凛に様子を見てきてほしいと頼んだ。

「こないだの先生、ゾンビみたいだったから、本当にゾンビになってるかも」

「何て事、言うんですか」

どうしてこの人はこんなに口が悪いのだろう。でも、やはり気づいていたのだ。

「冗談よ。娘さんご夫婦と一緒に暮らしているらしいから、心配することはないと思うんだけど」

老紳士の店は、バスで40分ほどの駅前通りにあった。

入口のガラス扉に、いかにも格式高い雰囲気のフォントで「ザ・ヴィンテージ・スピリット」と店名が記されていた。暗い店内を少し覗いてみると、目利きの鑑定人によって選びぬかれた品々で埋まっている。ありふれた雑居ビルの1Fが小さな博物館に作り上げられているのは、老紳士の並々ならぬ美意識と努力の賜物だった。

その入口から建物を辿った片隅に、従業員用のドアと小さな窓があった。窓が蜘蛛の巣状にひび割れ、いくつかの破片が欠損している。

傍の植え込みに生えた植物は手入れされた形跡もなく、すっかり茶色に変色して踏みつけになっていた。バナナブレッドは手のひらにまだ生温かく、凛は一瞬で場違いなところへ紛れこんでしまった気がした。

「今日は臨時休業ですよ。お客様ですか?」

声のした方を見ると、店の正面側から女の人が顔を出し、凛に向かってしきりに手招きをしている。女の人の無表情や修道女のような衣服のせいか、その情景はモノクロームの映画の一場面を思わせた。

「いえ、違うんです。お届けものを……」

事情を説明しようする凛のことを、その人は食事の配達人に違いないと決めつけてしまった。

「それなら私が代わりにお受け取りします」

この人は老紳士の娘なのだろうか。おそるおそる見ても、その表情に肉親らしきおもかげはなく、小さな子を持つ母親というには、彼女は歳をとりすぎていた。何より、ここには子供の気配など微塵もない。

「宅配が来るなんて知らなかったわ」

女の人が驚いている様子だったので、凛はまごつきながら答えた。

「急におたずねして、すみません」

「ええ、確かに」その人はしみじみと言った。「あの方がこういうものを頼むなんて本当に意外です。あの強盗事件があって以来、何て言うか、あまり外の世界と関わろうとされないので」

「強盗?」

「商品が狙われたんですよ。そこの窓を割って」

女の人は窓を指差した。

「男が侵入したんです。あの方はたまたま店にいらっしゃってね、運良くタクシーの運転手に助けてもらって、どうにか警察に通報して未遂に終わりました。少々お怪我をなされましたが。ご存じない? 記者がやって来て、夕刊にも載りました」

女の人は水を得た魚のように活き活きとし、まるでその場面に出くわしたかのような話しぶりだった。

「本当に残念な事件です。ここのご家族にはただでさえむごい事件ばかり起きるというのに。きっかけは、そう、間違いなく娘さんとお孫さんの交通事故ね。お二人がいっぺんにお亡くなりになって、それはそれは気落ちされて。あれ以来、良いことなんかちっともありません」

「えっ?」

意味がよくわからず、思わず訊き返した。

「それでも少しは良い時期がありましたよ。大学で先生をしていた時。まあ非正規の職員だから、優雅な生活には程遠かったけれど」

女の人の話は、どこまでも終わりそうになかった。凛はますます眉根を寄せ、無言で聞いていた。

「それで今は、あの古物商です。私はどうかと思いますよ。死んだ人から物品を巻き上げるなんて……」

「あの」

凛は話に割って入った。「先生は、中にいらっしゃいますか?」

「先ほどタクシーが停まっていたので、お出かけになられたかと。お食事は私がお預かりしておきますのでご安心を。私はあの方の身の回りのお世話をする間柄ですから」

「他に、お家の方がいらっしゃるなら……」

「いいえ」

ふいにその人は声を上げた。

「だから、誰もおりません。残されて今はたった一人です」

「来られなくて申し訳なかった。ちょっと遠くへ行っててね」

老紳士がイレヴンジズに喫茶店を訪れたのは、それからしばらく経ってからのことだった。

「やれやれ、厄介な商談だったよ」

落ち着いた声で老紳士は言った。

「遺品整理も大変だね。でもお元気そうで良かった」

こういう夜船さんの穏やかな喋り方はめずらしい。

「どんなお宅にも、本当に価値ある骨董品はそうそうあるもんじゃない。我々のような商売の者にとって、という意味ではね」

「だから厄介なのよね」

「そう。残された人には、思い出ぶんの価値が積み増されている。非常に厄介なことだ。しかし同時に、それより崇高なものもあるまい」

その仕事の難しさを物語る老紳士には、この前見られたような気弱さは無く、彼はすっかりいつもの気品と貫禄を取り戻していた。

「残された人の気持ちもわかるから辛いところよね。故人は、価値なんかとは無縁の世界に旅立ったわけだけれど」

なにげなく放たれた夜船さんの言葉に、銀食器を磨く凛の手が止まった。

あの日、老紳士の店の前で女の人から聞いたことを、夜船さんに言うことが出来なかった。ただ彼が不在だったことを伝え、持ち帰ったバナナブレッドは、二人でたべた。花咲く春の、昼下がりのピクニックにあつらえ向きだったはずのそれは、思ったほど口に甘くも優しくもなかった。

「今日はオーヴンの調子が悪くて」

ふと夜船さんが言う。「どうも火入れがうまくいかないの。だから今日はお菓子は無し。バナナブレッドか何かを、お孫さんのおみやげにと思っていたんだけど」

すると老紳士は顎を上げて何かを思い出そうとし、少し間を置いた。そして他人に見せるための完璧なかおを作って、言った。

「ありがとう、いつも皆で美味しくいただいているよ」

夜が近づくにつれ、冷え込んできた。ひととき客足が途絶え、いつのまにか静寂の水位が上がっていた。時が止まったみたいな夕方。手ざわりのない、曖昧な時間だった。海沿いの道を走る車のヘッドライトが遠のき、海に残っていた西日の色は、夜に紛れようとしていた。

「あの……夜船さん」

凛は思い切って彼女に話しかけた。夜船さんは、古紙回収日に出すための古新聞を束ねているところだった。

「先生は、本当に・・・娘さんやお孫さんと暮らされていますか?」

「ええ、そう聞いているけど」

夜船さんはカウンターにすわり、いつかの夕刊に目を落としたまま、こともなげに答えた。

それから夜船さんがカウンターに投げ出した夕刊の誌面にある記事を見つけ、凛は思わずあっと声を上げそうになった。

『◯月◯日午後七時ごろ、M市駅前通りの骨董品店に男(43)が侵入。店主の男性(79)が警察に通報し、男は逃走した。店主の男性は左手に怪我。全治一ヶ月。』

記事としてはごくありふれたものだが、この町で起こった事件としてはささやかとは言い難かった。ようやく新聞から目を離し、心の中に浮かんでいる疑問を口に出そうとすると、夜船さんはそれを、やんわりと視線で遮った。

あれ、どうしてだろう、と自分の反応を疑問に思うより一瞬早く、ぼわ、と視界が歪んだ。

「やだ、どうしてあなたが泣くのよ」

涙の雫が、夕刊の紙をやわらかく湿らせる。それに気づいた夜船さんが、呆れたように凛を見た。

「だって、あのおじいさん……」

老紳士の秘密を知ってしまうと、その抱えているものの大きさにおののいた。あまりにも不遇な事件と、この世にたった一人取り残されるということ。椅子取りゲームとは次元の違う、それはまだ凛の体験したことのない深さで、奥行きで、あまりにも黒く、凄みがあった。最後の一人になった人には、どこに居場所があるのだろう。最後の一人になっていい人なんて、いるのだろうか。

「……なんか、悲しいな、って、」

「悲しい、か」

夜船さんはカウンターからキッチンに移動してコンロに火をつけ、しばらく湯沸かしの炎を眺めていた。ポーと燃える炎は、悲しみがとろけたような青色だった。見とれていると、夜船さんが静かな声で語り始めた。

「そんなふうに思うのは、あなたがまだ本当の痛みに出会っていないからかもしれない。嵐みたいに何もかもを突然奪いとっていく、圧倒的に理不尽な、悲しい出来事に。人生ってね、そういうことが起こり得るのよ。勿論、起こらない人もいるけど、ね」

「夜船さんには……、あるんですか?」

彼女はその質問には答えず、言葉を継いだ。

「それは意志で選び取れるようなものじゃない。勝手に与えられて、心を片っ端からへし折って、叩きつぶしていくの。あなたがまだそれに出会っていないのなら、幸せなことだと思う。へし折られていない分だけ、たくさんの選択肢を持っている、ということだから」

その内容をきちんと理解しようとして、また涙がこぼれた。どう返事をしても言い足りなさが残る気がした。息をすって、吐く。たくさんの選択肢を持っている。私が?

オーヴンの中で、何かが焼きあがっていた。誰一人もてなす客のいない空間に、甘い香りと紅茶の湯気、そして語られることのない、誰かの静謐な秘密が満ちていた。

土曜の午前といえば常連客ばかりで、窓ぎわの席では、編み物の女性が物憂げにかぎ針を動かしていた。

イレヴンジズのお菓子は出揃い、Reserved予約席は来たるべき客の到着を待っている。ティーポットは、充分にあたためられて待機していた。

今朝、家を出る前、「父に会ってみたい」と凛は母に伝えた。母は一瞬驚いた様子を見せたが、そうね、今度話しておくから、と頷き、理由は訊かなかった。

「ねえ」

にやついた表情の夜船さんが、凛の肘を小突く。

「そろそろ教えてよ、どうしてお金が必要なのか」

「じゃあ、私も聞きますけど」

凛は、めずらしく歯切れのよい返しをした。

「夜船さんは、どうしてこの町に来たんですか? それを教えてくれたら、私も教えます」

「何それ、交換条件? あなたにしては上出来じゃない。でも、条件が見合わないわね」

夜船さんは、どこか茶化すような表情を浮かべて、それでも決してふざけることのない目に、静かな青い炎が見えた。冷たいような、でも指を伸ばせば確かに火傷してしまう、熱い炎。

それはいつだって夜船さんの中で燃えていて、だから彼女はその青い炎にケトルをくべて、たっぷり淹れた紅茶と温かい食べものを、皆と分かち合うのかもしれない。月の光のようにおぼろげなものに導かれ、この喫茶店を訪れた人たちに。

入ったばかりの注文を受け、お皿の上にお菓子やサンドイッチが並べられていく。

すべてを美しく盛り付け終わった夜船さんは「さて、これでよし」と満足げに呟き、編み物の女の人のところへそれを運んでいった。

「甘撚りの毛糸って、見てるだけで幸せな気分になれるわよね」

女の人はかぎ針の手をやすめて寛いでいた。すっぽりと時間の流れから切り離されたようなその人の佇まいに、ふと凛は思う。そう言えば編み目は進んでいないし、毛糸玉はまるで小さくなっていない。来週姪っ子が生まれるの、と、先月と全く同じことを女性は言った。夜船さんは、優しい笑みを浮かべて頷くだけだ。

その人の過去も事情も隠していることも、みんな当たり前のように受け止める。それが夜船さんなのだと、彼女のことを凛はようやく一つ知った。

この人はいったい誰なんだろう。この町になぜ来て、これから何をしたいと考えているのだろう——夜船さんの横顔は、月のように冴えざえと美しく、静かだった。

バナナブレッドが焼き上がり、甘い香りが流れ出す。やっぱり、春のピクニックの匂いだ。そんな家族の記憶はないのに、なぜかじんわりと懐かしさの感覚が広がっていく。

午前11時のティ・タイム。一丁目一番地の喫茶店では、ゆったりと時間が流れる。スイート(甘味)とセイヴォリー(塩味)を同じ皿に載せて。それら両方を知らなくては、生きていても、生きていないようなものだ。そしてその配分は、人の数だけあるのかもしれない……。

窓の外に見える海は、春めいた色に移り変わっていて、もう昨日の海ではなかった。




<つづく>

この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』2022年3月号に寄稿されています。今月号のテーマは「お別れの前日」です。春のはじまりで、冬の終わりのこの季節。切ないお別れをテーマに描いた作品が寄稿されてます。投稿スケジュールの確認と、作品を読みたい方は、以下のページからごらんください。


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