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秋の深まりはシャーベット・モードで

「夏の終わりって泣きたくなる」

小説も読まない、映画も観ない、美術館など行ったことのない私のかつての恋人が、初めて口にした一行の詩だ。

それがいつの会話だったのか、正確に思い出したほうがいい。それを合図に私は、彼と一緒の人生を行くことを決めたのだから。甘美な孤独の森の番人をやめて、面倒でも誰かと対話しながら生きていくことを受け入れたのだから。でも私は思い出せない。結婚記念日もすぐに忘れてしまう。

けれど、そう、その泣きたくなる夏の終わりの匂いなら私もよく知っている。

吸い込むと胸が締め付けられて、なぜだか涙がこぼれそうになる一陣の風の、匂い。

ときどき誰かから受け取る詩を、私は忘れないでいたいと思う。

忘れないでいることなんて、忘れる動物である私たちには無理なことだけれど。

季節の終わりの風にふかれただけでどうして泣きたくなるのか、大人になったいま少しだけ分かる気がする。私たちは抗いようのない日常の波の中に生きているから。今ここにあるものを全て、もう二度と戻ってこないところへと流し去る名前のない波の中に生きているから。

詩的なものなどほとんど存在しないように見える日常を、わけもなく涙をこぼさないように、美しい韻など踏んでいない言葉で、生きているから。

夏の終わりに、だからきっと泣きたくなるのだと思う。

よく晴れた秋の日曜、お菓子教室からの帰り道。あぜ編みのニットは少し暑くて、着るにはちょっと早過ぎたみたいだった。古い自転車のハンドルにかけた紙袋の中にはモンブランが4個入っていて、私はそれをひやひやしながらそうっと運ぶ。

空は空気をたくさん混ぜ込んで泡だてたやわらかなシャーベットみたいな風合いをしていて、スプーンを差し出せば、きっと一すくいごとに違った味がする。シャーベットは空気を混ぜ込むほど美味しいと先生は言っていた。たなびく雲のリボンの濃淡が、またすこし変わる。

家に帰ったら、4個のモンブランのうち1個が、箱の中でたおれてグシャグシャになっていた。

古い自転車のせいにしたいような気がしたけれど、よく考えてみると何一つ不満はなかった。それは彼のお兄さんに譲ってもらった自転車で、20年前に買ったのを、彼が大切に手入れしながら使っているものだ。そうだった、彼のそんなところも好きなんだったと思い出したから、私の気分はシャーベットの空みたいにさわやかなまま。物事の3/4も上手くいったのなら、上出来だ。

「物事の3/4も上手くいったのなら、上出来だ」。

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…美しい詩などではないけれど、そう言ったのは、たしか私。

そのあと、くずれた1個のモンブランを食べたのは、私だったっけ、それとも彼?

風がコーヒーの香りと秋の空気をかき混ぜて空に上り、空はしずかに劇場になる。

こんな秋の一日も大きな波にかどわかされ、忘れたくない一瞬たちと混ざり合って、やがて一かたまりの「過去」になるのだろうと思う。

泣きたくなる夏の終わりをなんとか過ぎた私たちは、いまシャーベット・モードの空模様を見ている。






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