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「噂通り、一丁目一番地」 最終話

最終話
WEDDINGウェディング CAKEケーキ

何もかもが白で統一されたヨーロッパの田舎風の教会で、カルテットの演奏者たちはウェディング・セレモニーを奏でる準備を整えていた。木もれ日の注ぐ前庭にはドレスアップした大人たちが二十人ほど集まり、にこやかな雰囲気で鐘が鳴るのを待っている。

その教会に隣接したホテルの819号室。若いホテル・ボーイがひとり、その窓際にたたずんでいた。

彼は主任からの指示の意味を理解しきれず、困惑したまま窓から教会を見下ろしていた。つい先ほどまで自分を包んでいた階下のにぎわいがまるで別世界のようだった。いよいよ祝福の一日が始まるのだ、という人々の期待とはうらはらに、窓からぽかりと開けた青空が、祝福というよりは不安をかき立てた。

「ご新郎様は、ここにはいらっしゃいません」

何かただならぬ出来事が起こっているのだ、という予感に、自分の声がわずかに震えるのがわかった。主任は電話の向こうで、ではいったん下に戻って来るようにと事務的に返事をし、ひと呼吸置いてつけ加えた。

「出来るだけ冷静に、何事もなかったように」

最上階のスイートルーム。白い装花やリボン、キャンドルでめいっぱい装飾された部屋をぐるりと見回す。祝福には白と相場が決まっているが、それにしても目まいがしそうなほど白い。まったく落ち着けないだろうな、ここでは。

どんな人間でも多少のやましさを抱えて生きている。潔白をつきつけられるようなこの部屋から、だからこそ逃げ出したくなるのも分からないでもない——彼は、人間の自然な感情としてそう思い、そして、今起こっている事態をやっと確信した。

彼の目は、テーブルの上の一枚の紙をとらえた。

初めて見る婚姻届は、もちろんその存在を知ってはいたが、いとも簡単に風にさらわれてしまいそうな、ペラペラの薄い紙だった。彼はそこへ歩み寄り、まさに今日挙式を挙げるはずだった——すでに彼は過去形・・・でそのように思った——新郎新婦の名前を好奇心から知ろうとした。

夫の名前欄は「井川いかわ れい」。知ったところで特に感想はなかった。ごく単純に、へえ、これが結婚式当日に行方をくらました男か、とそう思っただけだ。ただ妻のところに記された名前は、しっかりと脳裏に刻み込まれた。それは愛する人に、たった一人置いてきぼりにされた花嫁なのだ。この、痛ましいほどの純白の世界に。

彼は悼むようにもう一度その名を見た。そこにはこう書かれていた。

夜船よふね 絵里えり」。

「予約客の9人と6人、どうして間違えるのよ。ただの数字でしょ、別に高等数学をやれって言ってるんじゃないのに」

まったくもう、とつぶやきながら夜船さんは手早く刷毛はけを動かし、ちょっと顎を引いて出来映えを眺める。卵黄のつやをまとった焼きたてのアップル・パイが三つ、早くかぶりついてと言わんばかりに天板に並んでいた。

「ごめんなさい」

しゅんと花がしおれるように肩を落とした凛を横目に、夜船さんは言った。

「まあ、いいわ。ともかく追加分、イレヴンジズ午前11時の予約に間に合ったから。カトラリー9セット、磨いておいてくれる?」

「はい」

地元雑誌社による取材があったのは先月のことだ。『一丁目一番地の喫茶店で待っているのは、ただひらすらに、青い空と海……。』そんな書き出しで公開されたWEB記事は、思いのほか反響があった。都会からわざわざこの店を目指してドライブする人や、特別な日のための焼き菓子を予約注文する常連客も現れるようになった。喫茶店を彩る英国風のしつらえやヴィンテージの茶器などはある一定の好みをもつ人々に好意的に受け入れられ、夜船さんの考案したイレヴンジズやアフタヌーン・ティのファンは少しずつ確実に増えていった。

SNSにタグをつけて更新される情報に、「とても美味しかった」「雰囲気が素敵」「また行きたい」などのコメントを見つけると、つい凛の顔はにやついてしまう。訪問者によって撮られたとりどりのお菓子と紅茶の写真には、どれもこれも窓の外にきらめく海の青が広がっていた。

「ごちそうさま。今日も素晴らしかったわ」

常連客、の定義はこの喫茶店において、紅茶の淹れ方が決まっている人にほぼ等しい。綺麗な白髪にフェルト帽が似合う桜田さんには、かすかに色づく程度の薄いアッサム・ティ。そこにアンバランスなほどたっぷりのミルクを注ぐ。それを「完璧ね」と喜ぶ彼女を観ていると、ティ・タイムの愉しみ方は人の数だけあるのだと凛は思う。

9名の予約を入れたのはこの桜田さんで、どうやら彼女の主催する手芸教室の帰りとみえる。皆一様にかさばった紙袋を抱えているのは、大きな裁縫箱や布などを運ぶのにまだ慣れていないからなのだろう。中年の女性ばかりまるで新入園児のような表情で、凛にはその光景が微笑ましかった。

「それから例の件、」

全員分の勘定を済ませてから、桜田さんは夜船さんの方を向き直った。

「引き受けてくれてありがとう。昨日、リングピローをやっと縫い終えたのよ。上等なアンティーク・レースをふんだんに使ったわ」

「お母さまの手作りのリングピローなんて、きっと素敵なお式になりますよ。ケーキはおまかせください。ご注文通り、英国流でお作りします」

「よろしくね」

と彼女が凛の方を見たので、何のことか察しがついた。ここのところ夜船さんは毎日のように指先までバタークリームやフロスティングでべたつかせながら、試作品作りに精を出している。

「ウェディング・ケーキといえば毒入りケーキが有名ですが、もちろん毒は入れませんから安心してください」

「あら、いやだ。クリスティの小説ね」

桜田さんはくすくす笑いながら冗談を理解していることを示し、夜船さんがまた何かおかしなことを、と青ざめた凛はようやく安堵の息をついた。価値観はそれぞれながら、類は友を呼ぶ、というのはどうやら本当らしい。

女性たちがばたばたと店を出て行った後、テーブルを片付けながらそっと夜船さんの顔を見る。「リングピロー」が何かは知らないが、おそらく指輪に関わる物なのだろう。凛は先日の夜船さんとの会話を思い出した。

——何を捨てたんですか?

——とてもとてもちっぽけな、くだらない約束。

同級生の磯村いそむら優月ゆうがが砂粒の中から拾い上げた指輪には「R to E」と刻印されていた。喫茶店のポストに入った郵便物に「夜船絵里」という名前を見つけた時、凛は思わずあっと声をあげそうになった。絵里のイニシャルはEだ。ただの偶然かもしれないが、符合している。

「例の配達にね、ついてきてもらおうと思って」

凛の思惑を察してか、あるいは自身の気詰まりからか、夜船さんが切り出した。

「ウェディング・ケーキですか?」

「そう。娘さんの結婚式場に直接届けることになっているの。運転は得意じゃないから誰かの道案内が必要だし、現地でちょっとした仕上げの作業もあるし、私が途中で気が変わらないように見張っててほしいし」

「どういう意味ですか、それ」

「ま、いろんな可能性があるってことよ」

最初の二つはともかく、最後の一つには首を傾げた。しかしあれこれ問い正したところで夜船さんの中に明確な答えはないだろうから黙って頷く。

夜船さんは何か思うところがあるのか、いつも以上に感情を封じ込めているように見えた。不穏な凪みたいだ。あまりに静かな海は嵐の予感をはらんでいるようで、凛は不安になる。

式場の事務室に入ると、なんとなくいやな予感がした。外から帰宅してドアを開けた時、父と母の間で何か良からぬこと、たとえば離婚に関する電話での言い争いがあったとわかる感じに似ていた。

「ウェディング・ケーキのお届けです」

髪を撫で付け、正装に身を包んだ男性スタッフは曖昧な笑みを浮かべていたが、そこには明らかな困惑が滲んでいた。

「大変失礼ですが、お届け先をお間違えではないでしょうか」

「え?」

「本日挙式のご新郎新婦さまから、確かに最初はお持ち込みのご相談もありましたが、最終的に弊社のパティシエが準備させていただくことで話がまとまっております」

そんなはずは、と周りを見回すと、式場の従業員は皆きまりの悪そうな顔をしている。

「ナイト・ウェディングで、ケーキ入刀の光の演出などもリハーサル済みでして……」

彼はそれから背を向け、携帯電話でぼそぼそと何かを話していた。やがてこちらを向き直り「間違いありません」と言った。彼の沈痛な表情から、その通りなのだろうと二人は悟った。

会釈をして、ケーキの入った大きな箱を抱えたまま部屋を出る。ドライフルーツをやきこんだケーキは二段重ねで、表面にあしらったレース模様のフロスティングは凛がアイデアを提案した。試作品の出来具合を桜田さんに電話で伝えた時、「それはとても素敵ね」と言ってくれた。だからこのウェディング・ケーキには、凛も深い思い入れがある。

「仕方がないわ。こんなこともあるわよ」

車に戻った後、夜船さんは言った。肘をこづかれた凛は、「ごめんなさい」とちいさな声で言う。

「あなたのせいじゃないわよ。私の確認不足だったの。桜田さんのことはよく知っているつもりだったから油断してた。花嫁さんに、ちゃんと確かめるべきだった」

英国流のウェディング・ケーキは見た目こそ地味だけれど、結婚式に参列できなかった人々へ祝福をおすそ分けするため日持ちするように作られている。……光の演出なんて。大きさや派手さだけがケーキの美しさじゃないのに、と凛は悔しい。

「結婚式っていうのはさ、主役二人のための日なのよ。彼らは世界で一番、幸せであるべきなの。余計なことは考えない。さ、お店に帰りましょ」

夜船さんは車をスタートさせる。まるでそれ自体がどっしりした白いデコレーション・ケーキみたいな式場をあとに、市外へ続く国道に乗る。しばらく走ると、視界に海が滑り込んでくる。途中、ふいと現れたレモン色の電車がガタゴト並走したかと思うと、また木々の中へ消えていく。

窓の外の風景からはどんどん街の色が抜け、自然の色合いがしのびこんでくる。海の青や、山の緑。でもその優しい色だけを映すことに慣れてしまった目は、やがて新しいものを見られなくなるような気がして凛は少し怖い。鮮やかな都会を映し慣れた夜船さんの目は、この素朴な景色の中に何を見ているのだろう。窓から風が流れ込む。夜船さんは無言だった。

喫茶店に着き、車を降りたらすぐ、目の前には海が広がる。堤防と灯台、港。一定の条件が揃った時だけ見ることのできる美しいピンク色の夕空が二人を出迎えた。

「東京から新幹線に乗って、」

潮風に撫でられる夜船さんの髪をぼんやり見ていると、ぽつりとつぶやいたのが聞こえた。

「適当な駅で降りて、それからまたローカル線に乗り換えて。途中駅に停まるたびに乗客が減って、最後には貸切になったの。あの日もこんな夕空だったな。たどり着いた場所がここだった。だから、ここならいっか、て思うことにしたのよ」

「……喫茶店を開くのに?」

「エンゲージ・リングを捨てるのに」

ちいさいけれど、決意に満ちた声で夜船さんは言った。

「……そう、なんですか」

淡いピンク色に染まった空と、それをそのまま映しだす凪いだ海。その、まろやかな甘い色。見なれたはずの風景の中に、凛は初めて胸の苦しさを覚えた。

「あのへんに投げたんだけど」

と、灯台のあたりを指差す。灯台がいつも白く輝いて見えるのは、誰かが汚れや錆をつねに塗り直しているからだろうか。過去もこんなふうに、いつでも塗り替えられたらいいのに。

「給料の三ヶ月分、ほんと一瞬で消えちゃった。ダイヤモンドは永遠なんていうけど、ね」

ふふっ、と彼女はちいさく肩を揺らし、凛を見ずに店の方へ歩き出した。

夜船さんと結婚の約束を交わした相手が今どこでどうしているのか、気にならないといえば嘘になる。けれど、もちろん訊かなかった。

ただ、夜船さんはきっとまだその人のことが忘れられないのだ、と凛は思った。忘れたくて、忘れようとして、忘れられなかった。だから喪失をそのまま回収するかのように、この場所に喫茶店を開いた。海にまるごと抱きしめられているような、『噂通り、一丁目一番地』に。

かつて夜船さんの言っていた「本当の痛み」の意味が、今ならすこしだけ分かる気がした。人生に否応なく与えられる、圧倒的で理不尽な悲しみ。それだけじゃない、と凛は思う。それは一回の悲しみの体験ではない。じゅくじゅくと癒えない傷の痛みが永続的に尾を引く「長い長い一個の悲しみ」なのかもしれない。

喫茶店の明かりがつく。あえかな波音に、一瞬ふわりと現実から引き剥がされる。もう一度海を振り返ると、その夕刻の中に、凛のまだ見ていなかった色があった。

その日の夜、磯村優月から短いメッセージが送られてきた。

『見たよ。よかった』

最初は何のことかわからなかったが、雑誌社の記事を見てくれたんだと思い当たった。新学期に入って以来一度も優月とは会っていない。連絡をくれた、それだけで嬉しい。

ベッドの上に置きっぱなしの雑誌を手に取る。母がわざわざ付けた付箋のおかげで、すぐに喫茶店の記事のページが開いた。数カットの写真のピントはどれも紅茶やデザートに合い、凛はぼやけた背景に溶けている。でも母はそれを何度も眺めていた。

『ありがとう』

とまずは返事をして、考えながら、メッセージを打った。

『何て言ったらいいのかわかんないけど、拾った指輪のことで話したいことがあるから、会いたい』

指輪について、今すぐ電話をかけて優月に伝えたかったが、まだ今はうまく話せないような気がしたので我慢した。長い文章を送ったところで優月は読まないだろう。ふつりと暗くなった携帯を手に、「会いたい」は違ったかも、と凛の頬が赤くなった。送信を取り消そうか悩んでいると、返信が来た。

『土日、塾行かされとる。GWも塾。数学まじ無理、すうじパズルの方がいい〜』

よかった。「会いたい」がスルーされて逆にほっとする。

『塾ってさ、なんであんなに生徒から質問させようとするん。だっる』

『質問て、ある程度分かってないとできないよね』

『ほんとそれ』

他愛のないやり取りのあとにこう続いたので、凛の心は浮き立った。

『GW最終日、喫茶店いくわ』

『わかった。待ってる』

『夜道に気をつけてな。背の高い人にまた声かけられたら、今度はちゃんと逃げてよ』

『うん』

やりとりが終わり、携帯を置いた。しかしちょっとした違和感に、もう一度画面を開く。港で凛に話しかけてきた男性は背の高い人ではなかった。すこし考え、優月の目撃した不審者(らしき人物)とはきっと違う人なのだろうと凛は結論づけた。いずれにせよ遅くならないうちに帰宅しなくては。母との約束もある。

窓の外に訪れた初夏の気配は、夕方になって勢いをひそめた。久しぶりに姿を見せた優月は、今年最初のコールド・ブリュー水出し紅茶をのんで楽しげだ。凛はいつものくせでティーカップをあたためかけ、そんな自分に気づいて苦笑した。

夜船さんがおもての灯りを落とし、正面扉にClosedの札を下げた。キッチンの奥へ入って行ったのを見届け、凛は、もうすぐあがるから、と優月に目配せをする。帰りながら砂浜で見つけた指輪のことを話そう。でも、どこからどう話せば……と頭の中を整理しながらフロアに掃除機をかける。その音のせいで、扉が開いたことに気づかなかった。

「あの、」

後ろから声をかけられ、すべり込みで入って来たお客さんかと思い振り返ると、立っていたのは眼鏡をかけた男の人だった。すみません、本日はもう閉店で、と口を開きかけて目が合った瞬間、想定外の人物に体が一瞬固まる。凛の緊張を見て、その人はあわてて頭を下げた。

「こないだは、すみませんでした。急に話しかけてしまって」

やっぱり、港で会った人だ。あの時は逆光で顔がよく見えなかったが、シルエットと声がはっきり記憶と重なる。あらためて見ると、黒縁の眼鏡からのぞく目元のしわが柔和で、優しそうな——どちらかといえば気弱そうな——印象の人だった。

「井川と申します。夜船絵里さんに、会いに来ました」

「あ、はい。えーと……」

心がざわざわ鳴る。どう対応したらよいかわからず振り向くと、すでに夜船さんはそこにいた。フロアとキッチンの境界のところに、足を縫い止められたみたいに立ちすくんでいた。見開いた目の中に、騒ぐ波が見える。

夜船さんが不機嫌なのはいまに始まったことじゃない。でも、この物憂い雰囲気の不機嫌さにはなじみがなかった。ある時から始まってしまった、誰も、どんなものもいたわることのできなかった痛みが、再び彼女の中で疼き出したにちがいなかった。すべてはそれを忘れ、世の中に存在するその他の良いことに目を向け、新しい一歩を踏み出すためのものだったはずなのに、一瞬で夜船さんは、自分を見失ってしまったみたいに見えた。

そのまま長い時間が過ぎ、井川と名乗った人は夜船さんを見続けながら言った。

「……謝りに来たんだ」

夜船さんの目からふっと恐怖の色が消えた。その睫毛のかげに、わずかな潤みを見逃さなかった凛は、もしかしたら彼女が声をあげて泣きたくなったんじゃないかと思った。でも、夜船さんは決意を口角に滲ませ、反対にあからさまな怒りをぶつけた。

「今すぐ出て行って。そしてもうここには来ないで」

「絵里」

「できるわよね? ただ回れ右をして、そこのドアから出て行けばいいの。あの日と同じように」

「きみは誤解してる」

掛け違えてしまった最初のボタンに戻ろう、と子どもに語りかけるような、穏やかな声。

「出て行ったことは確かだ。でも戻ったよ。もう、式も披露宴もキャンセルされていたけど——それで目が覚めた。後悔したんだ。何てバカなことをしたんだ、ただの気の迷いだったのにって」

「嘘よ」

夜船さんはにべもない態度で言い捨てた。

「あなたは戻ってこなかった。どうせこんなことになると思っていた、だから反対したのにって家族にも見放されたわ。彼らが正しかった」

「戻ったんだ、本当に」

「そんなはずない」

思いもよらない事態に優月を見ると、彼はただことの成り行きを見守っている。わかっていないと質問はできない。確かに。でも知りたければ、おのずと疑問が湧いてくるのだと、彼もきっと今そんなことを考えているにちがいないと凛は思った。

「タバコを買いに、」

と井川はそれを話す時、苦しそうな表情になった。

「ホテルを出た。あの立派な白いタキシードを着る前にと思ってね。すぐ戻るつもりだった。近くのコンビニで一服した。『これでいいのかな?』って、少し不安になったんだ。しばらく散歩をして、頭を冷やした。もちろんきみのことを考えた。そして自分の愚かさに気づいて——あわてて戻ったら、時はすでに遅かった」

「ねえ、あなたの作り話を聞いている時間はないの。私はホテルでずっとあなたを待ってた。とても素敵な最上階のスイート・ルームで。私がどんな気持ちで待ってたかわかる?」

夜船さんは痛みに耐えるように目を細め、ふ、と灰色のため息を漏らした。彼女の心はもったりとしたもやの中で、過去の光景を見ていた。潔癖なほどの純白に塗り込められた819号室のスイート・ルーム。かかってこないスマートフォンの画面は、月も星もない漆黒の夜を映している。そのテーブルの上には、婚姻届と、ホテルの部屋番号が刻まれたカードキーが一枚。

もう一枚は、彼が持って行った。それだけを心の支えにしていた。でも。

怖気おじけ付いたんだ。かなり混乱もしていた。道順もよく覚えてないくらいだけど、ともかく戻った。きみを一人にはできない。でも、きみはいなかった」

「どうして」

そんな嘘をつくの、という疑問は諦めによって打ち消される。

「もう、いい。嘘はもうたくさん。あなたは逃げたのよ、怜」

どんどん重くなる二人の声を聞きながら、凛は確信を深めた。指輪の刻印は「R to E怜から絵里へ」、半信半疑だったけれど、辻褄が合う。

夜船さんが誰かに親しみのこもった声で絵里と呼ばれることも、こんなふうに感情的になることも、思いもよらなかった。ただ夜船さんは強固な意思で、本心を胸の奥底に押し込めているにちがいなかった。だって夜船さんははるばる列車にゆられて、海に過去を捨てたのに、でもまたその海に戻って来たのだ。忘れたかった、忘れようとした、でも忘れられなかった。凛の心の海で、じれったさが、どんな波より激しく揺らいだ。

「嘘じゃないんだ。フロントにも確認した。キーを見せたら、その部屋の客はすでにチェックアウトしたと言われた。忘れもしない、618号室。傷つけてしまったことを後悔している。でもそれきり、きみは一度も連絡に応じてくれなかった。思い知ったよ、きみは去ったんだと」

「やめてよ。私が去ったみたいに言うのは。あなたが私を捨てたのよ」

喫茶店が一瞬、しんと静まり返った。気のせいか、どこか遠くで船の汽笛が聞こえる気がした。帰るべき港を失った船。闇夜の海をよるべなく進む航海。井川怜はゆっくりかぶりをふり、足元に落ちた自分の影を見た。

「……あのさ」

傍で聞いていた優月が、静寂を破った。

「部屋をまちがえたってことはないの?」

さすがにそれは……、と言いかけた時。優月の思いつきに呼応し、凛の頭に一つのひらめきが浮かぶ。6人と9人を間違えるミス、高等数学じゃない、すうじパズル。

凛はレジ横の伝票の束から一枚を抜き出し、その余白にペンでこう書いた。

「618」

それからその紙片をクルリと半回転させる。

「819」

全員の視線がその紙に集まっていた。ほらね、と優月がそっとささやく。

「あ……」

「それ、何て名前のホテル?」

半ば呆気にとられながら、井川怜は優月の質問に答えた。優月はそれを素早くスマートフォンで検索すると、画面を上にしてテーブルに置いた。

「最上階のスイートルームは8階。だからおじさん、やっぱりまちがえたんよ」

これほどまでに単純なことだったのだろうか、と夜船さんはその事実に唖然としたまま、長いこと動かなかった。またどこかで、かすかな汽笛の音が聞こえた。やっぱり気のせいだろうか。あるいは凛だけが感じとった音だったのかもしれない。顧みられることのなかった過去が、夜船さんの中で再び動き出した音。

その場の余韻がやむのを待ち、優月はポケットから指輪を取り出して井川怜に差し出した。

「……じゃあ、おじさん、これ」

砂浜で拾ったんで、と優月が言いそうだったのを「たぶん、夜船さんの指輪、だと思います」と凛があわてて遮って曖昧に濁す。

夜船さんはまだ立ちすくんでいた。海に捨てたかった、という自分の言葉について考えていたのかもしれなかった。婚約指輪を投げたのは、すべてをなかったことにして忘れるためだったのか。あるいはカモメが本能のまま潮風で傷を癒すように、海に慰めを求めずにはいられなかったのか。

その場にいる誰もが頭に疑問符を浮かべていた。井川怜が最初にそれを打ち消し、気持ちをしゃんとさせるために背筋を伸ばした。それからおもむろにその場所にひざまずき、片膝を立て、腕を差し伸べた。

「夜船絵里さん」

その意味がわからない人はきっといない。これからずっと一緒にいようなんて、大人の約束はやっぱり途方もない、と凛の心はすくみ上がる。でも、完璧に成すことを誓わなくていい。たとえ最初からうまくいかなくても、なんらかの欠陥があっても。むしろ欠陥に付与された価値は、時代を超えて強い。

「あんなことがあって、今さらやり直せるわけないじゃない……」

「そうかもしれない。でも大丈夫だよ、僕ら」

相手の感情の兆しを探しながら手持ちのカードを変える。大切な人へのそんな語りかけ方を、凛はすでに知っていた。夜船さんの感情の糸口がそっとほどけていくのが凛には分かる。ここを踏み越えるべきかどうか迷っている。一人でいるのが誰よりも怖いくせに、誰の手も借りずに決定しようとしている。

「これからだって、困難しかないわよ」

夜船さんはおそらく母親と同じくらいの年齢で、だから一人の人間としての過去や歴史を、他人がやすやすと踏み荒らすべきではないことくらいわかっている。でもそれを尊重するより先に、どうして今目の前にあることよりも過去や未来を憂うのだろうと、凛はたまらない気持ちになった。

「夜船さんの今の・・気持ちは、どうなんですか」

凛が言う。夕刻に染まる美しいピンクの海は、その日だけの海。いつかまた見られるなんて、そんな保証はどこにもない。

「こうして会いに来てくれているのに、それでもまだうじうじ考えるんですか」

言いながら、父親のことが頭をよぎった。いまだに会うことは叶っていない。それを望んでいると、もっと早く言えばよかったのに。今度は自分が自分に言う。このまま別れてしまったらきっと後悔する。

「あのー……、お取込み中、悪いんだけど」

優月がおずおずと割り込む。さすがに気後れするのか、ささやき声で言った。

「水咲さん、七時のバス、乗り遅れる」

「え? ……うわ、ほんとだ!」

やっば、と思わず口に出る。時計を見るとぎりぎりの時間だ。というか、経験上いまから港のバス停にたどり着くには二分足りない。急がなければ。

「ちょっと、鞄忘れてるわよ。あと上着も。エプロン脱ぎなさいよ。打刻はしておくから。カウンターの紙袋、半端物の茶葉入ってるから持って帰って——違う、そっちじゃなくて小さい方……」

約束をしたのに、遅くなると母にも連絡をしていない。身支度を整えるために顧みる余裕もなかったが、紅茶の入った袋を手渡してくれた夜船さんの顔をやっと見上げるとその表情はまだ緊張でこわばっていた。大丈夫ですか、と問いかけてやめた。お子様に心配なんかされたくないわよ、とその目が語っていたから。

——つねに熱いお茶を注ぎ、親しい人と語らい合うこと。そうすれば、たとえいつか茶器が割れても、決して損なわれない一生ものの何かが残る。

老紳士はかつて、価値あるティーカップについて凛にそんなことを言った。大丈夫だ、ここにはたっぷりの量の紅茶がある。語らい合う時間も、きっと今宵なら。

凛は正面扉に続いた小さな階段をひらりと飛び越え、駆け出した。

「水咲さん、待って」

優月が自転車を押しながら追いかけてくる。

「家まで送るよ。たぶんもう間に合わんでしょ」

「え? それ……」

「言ってなかったけど、原付、免停になった」

自転車にまたがりながら優月が言った。「後ろ乗れるよ」

「嘘でしょ?」

「いや乗れるよ」

「そうじゃなくて、免停って」

「二段階右折せんかった。ちょーど見られてて、捕まった。財布に免許入ってなくて。あと、知らんかったけどサンダルも違反だった。あとそれから……」

この人、悪びれる顔もするんだ。理由のわかった黒髪を眺めていると、優月は最後に「これテストに出るやつ」と言って苦笑いした。校章ひとつ留められない優月がどんな顔でその違反を受けたのか想像する。不謹慎だ。でも可笑しかった。

夕暮れに白い月が出ている。二人は海沿いの道を並んで歩き出した。石壁のプレートがキラリと光り、優月がそれに反応する。

「ここにさ、『月がふたつある夜に開いています』って書いてあるじゃん。これ、どういう意味なん?」

「わかんない」

何かしらの意図があるのだろうとは思うが、夜船さんのことはやっぱりよくわからない。でも、知っていることをつなぎ合わせてイメージしてみる。月がふたつある夜。それは夜の海に浮かんだ孤独な人たちの船が、奇跡的に引かれ合う夜のことかもしれない。あるいは、たとえば父と母のように、全く別の海で、それぞれ別の月を見ることを決意した人たちの夜。

そういえば、と凛は大切なことを思い出した。スマートフォンを取り出して母に状況を告げる。「それなら磯村くんもうちで夕食を食べて行きなさい」と母が言うので、困った。

「おれはいいけど。お父さんもおるん?」

「いない」と凛は首を横に振った。「うちの親、離婚するんだ。お父さんはもうずっと前に家を出て行って、会いにきたこともない。顔もあんまり覚えてない」

ちいさな町に流れる噂でおおよそのことは知っているはずだ。しかし優月は何かを汲み取って、「ふうん」と頷く。

「でも何ていうかさ、さっきの人たち見てたら、思う。会いたくても会えないことがあるんだって。お父さんも、何か事情があって会えんかっただけかもしれん」

あまりにも途方もない約束を前に。ちいさな気の迷いや、誤解があって。決して、会いたくなかったわけじゃなくて。

そうか、と真実かどうかはさておき、凛はその優月の言葉を素直に受け入れようと思った。一気に肩の力が抜けて、しばらく放心したまま歩く。

「あれ、すうじパズルの要領よな」

と、優月が言う。あっさりとした話の方向転換に凛は笑ってしまう。

「6と9、おれもよく逆さまに間違えた」

「あ……うん」

ホテルの部屋番号のことだ。でも本当は、予約客の数を間違えた時と同じことをしただけだった。言わないけれど。

「大人も間違えるんだね」

凛はつぶやいた。

「みんなそうよ」

優月は平然と言ってのける。所持品検査で注意されたり原付バイクを免停になったり、やっぱり問題行動の多い子と大人の目には映るのだろう。なのにどうして、優月の言葉はこんなに信頼できるのだろうか。

「優月くん、どうして塾行くことにしたの?」

「大学、行こうと思って」

「気持ちが変わったんだ?」

「まあ……、うん。水咲さんも、行くでしょ?」

「よくわからないんだ」

現実と折り合いをつけた優月の心変わりに驚く。私は、どうなんだろう。

「自分が何したいのか、全然わからない」

「でもきっとわかるよ」

「どうして?」

「なんとなくそんな気がする。だってもう水咲さんは、椅子取りゲームの最後の一人にはならなさそうだし」

どういう意味、と聞きかけて、でも急に体中で血が巡り始め、熱くてのぼせるかと思った。深呼吸する凛を見て優月は小首をかしげる。気付かない優月でよかった。

凛は安堵し、黒髪の輪郭から宵闇に溶けていく彼をあらためて見る。ひょっとして彼も私のことを、名前で呼んでみたいのではと期待しながら。

闇はどんどん流れ込み、空と海の区別がつかなくなる。まばらな古い街灯のあかりをすいこんでいく夜道は、決して二人に優しくはなかった。でも瞬き始めた星がよく見えるから、明日はきっと晴れるだろう。近く遠く、夜に浮かぶいくつもの光は、真っ暗な行方に点々と手がかりを与えてくれているみたいに見えた。「約束」はもしかしたら、夜空の星みたいな存在なのかもしれない。たとえどんなに頼りなくても、その目印がなければ流されてどこかへ行ってしまう。

その夜空の中心で、月が静かに呼吸している。もう一つの月が上がってくるのを待っているのではと、凛にはそう見えた。

「どうぞ、召し上がれ。ウェディング・ケーキは食べない方が幸せになれるんだけど」

桜田さんは謝罪に訪れたが、夜船さんはお店で皆にふるまうからと屈託なく笑ってその話題をお終いにした。小さく切り分けられ、イレヴンジズの皿に載ったケーキはドライフルーツがたっぷりで、やはり紅茶に合う。

「そういう推理小説があるんだよ。毒入りのウエディング・ケーキがトリックでね」

と、老紳士が凛に教えた。

「しかしこう言っては何だが、結婚生活は、少々の毒をたべるくらいの覚悟がなければ。逆に言えば、それさえ食べられれば何とかなるものだ」

答えに窮した凛は、砂時計が最高の一杯を知らせたのを機に、カウンターへ戻った。先日、老紳士の店を襲った強盗犯が捕まったと、夜船さんが夕刊にその記事を見つけた時、凛は胸をなで下ろした。窓辺のReserved予約席でいつもの一杯を愉しんでいる老紳士の姿が見られるのは嬉しい。

「ありがと」

次の注文に備えて茶葉を量っていると、夜船さんに言われた。清々しい、ストレートなその言い方は、穏やかな海の底に差し込む、まっすぐな光みたいだった。もしかしたらそれは、井川怜の存在が与えたものかもしれない。傍目には仕事上のやりとりでしかない会話に、凛だけがその言葉の意味を悟った。

「……別に、高等数学を披露したわけじゃないですけど」

「何よ、それ。すっかり生意気になっちゃって」

フロアを見る瞳の中に、ぎこちなくエプロンを着た井川怜が映っている。

「夜船さん、あの人……は、どうするんですか」

「さあ。そのうち音をあげるんじゃない」

冗談ですませようと、夜船さんは軽く肩をすくめてキッチンの奥へ逃げた。この先どうなるかなんて、きっと彼女にもわからないのだろう。週末だけとはいえ東京から通い続けるなんて。ただの勘違いか、気の迷いか。でもその勘違いや迷いが積み重なって、今がある。そのおかげで、この喫茶店もある。

「私、この町の地図を作ろうと思ってるんだ」

唐突にキッチンから顔をのぞかせて、夜船さんは言った。

「この町って、地図がないでしょ。いくら観光資源が何もないからって、皆が<自分だけの地図>の中で一生暮らしていくなんてつまんないと思うのよね。少なくとも私、美味しいパン屋と、夕日がきれいな海辺のスポットを知ってる」

それは、とてもいい考えだった。何もない場所を荒野と見るか、自由の港と見るか。もしそこが自由の港であるなら、誰だって行ける。帰るべき港を見失った船も、それを追いかける船も。きっと地図はゆるやかに広がっていく。ここ噂通り、一丁目一番地から。

「——あ、それは大切に扱ってください」

慣れない手つきでトレイを震わせながら、ティ・セットを下げようとしている井川怜に凛は歩み寄った。カップの内側に緻密に描かれたノーブル・ローズ凛々しいばらの花。熱い紅茶ですぐにそれが咲くのを、凛は知っている。

いつか父に会うことがあれば、凛もこのティーカップを好きだと、他のことはともかく、それだけを伝えたい。

「すみません。値打ち物なんですよね。緊張してしまって……」

「これ、私が洗いますね」

凛もキッチンへ姿を消した。……となると、これから入ってくるお客は自分が対応しなくてはならない。「さて」と、誰にともなく井川怜がつぶやいたそばから、正面扉にくくりつけた鈴がりんと鳴って来客を告げる。その男性はスーツケースを足元に置き、扉のところに立ち止まった。

「ど、どうぞ」

ぎこちなく案内しようとする井川怜を、男性はいぶかしげに見て訊ねた。

「ここは『噂通り、一丁目一番地』の喫茶店……ですか?」

聞いていたことと違う、とでも言いたげな、臆病そうな表情。

紅茶から立ちのぼる湯気を透かして、老紳士は重要なことに気づいた。彼は真摯な鑑定家だから、ここぞという時にゆるぎない審美眼が冴えるのだろう。ありふれたスーツに身を包んだ、背の高い男性。そんな風貌の人は世間にごまんといるのに、彼にはそれが凛の父親だとわかった。

「さよう、ここはまさに『噂通り、一丁目一番地』。しかし『噂通り』なんてものには、なかなかお目にかかれない。何事もその目で確かめてみなければ、本当のことはわかりません」

しみじみとした説得力を滲ませて老紳士が言う。それでいて、いたずらを企む少年のような目をして。

開いたままの扉から、豊かな潮風が流れ込んで店内をめぐる。海の波はもう春の優しさをひそめ、夏の初めのとどろきを群青の中に秘めていた。




<おわり>

この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』2022年5月号に寄稿されています。今月は連載・連作2作品と、ゲスト作家による短編作品の小説3作品を中心に、毎週さまざまなコンテンツを投稿していきます。投稿スケジュールの確認と、公開済み作品は、以下のページからごらんください。

連載小説『噂通り、一丁目一番地』は、以下のリンクからまとめてお読みいただけます。


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