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今日も明日も舞台の上

すこし早く起きることが出来た日は、悪い朝食をつくる。

トーストにバターはたっぷりと、ハム、チーズ、目玉焼きをのせて、最後に好きなだけメイプルシロップを。甘さと塩っぱさがじゅわっとしみたパンがハンバーガー・チェーンのグリドル・メニュウを思い出させる味で、こういうのはまさに “悪い味” だなと思う。

最近、生活が慌ただしくて、街のハンバーガーショップへ行く機会がない。最後にあの味を楽しんだのはいつだったかな…… 甘い塊をゆっくり味わいながら、記憶を探る。

誰といても一人になりたくなるし、一人でいると寂しくなる。そんな矛盾と厄介な自意識をいつも抱えている私にとって、街に点在するハンバーガー・チェーンやコーヒーショップは、ときどき教会のような優しい場所になって私を匿ってくれる。

その世界の隙間で私は誰でもないアノニマスな存在でいられる。ただ偶然そこに居合わせただけの、名前のないひとりの人間になることが出来る。

誰も私を見ていない、気にしてもいないから、私は自分が自分であるということさえ忘れることが出来るような気がする。忘れるというより、手放すというべきなのかもしれない。

いつだったか誰かが、「人間は生まれた瞬間から舞台の上」と語ってくれたことがあった。

私は舞台の上に立つ役者ではないし、そういう経験さえしたことはないけれど、なぜだかその言葉の意味は抵抗なく受け入れることが出来た。私の心にいつだってしつこくまとわりつく、「私はどうして私に生まれたのだろう」という疑問の答えに近づけたような気がしたのかもしれない。

その人はこんなふうに続けた。

「あなたはあなたの名前の役を与えられて、舞台の上でそれを演じ生きている。死んだら舞台を降りられるから心配はいらない。あなたが本当に自由になれるのはその時なのだ。だから、とにかく、生きることを、これ以上ないくらい懸命におやりなさい」     


英語に “The show must go on” という表現がある。ショーは続けられなくてはならない——— いちど始めたことは最後まで続けなくてはならないという意味だ。その人の言うことを信じるなら、私は私の舞台を最後までやり遂げなくてはならないのだろうと思う。ぶっ続けの本番を、今日も明日も。

けれど、それを貫くにはちょっと重すぎる時がある。どうやったって役は変えられないし、代役だっていやしない。ひと時もやすまず人間を最後まで演じ生きるのは、どんな名前の役であっても並大抵のことではない。

チケットを買って、奥へ入場する。ひとりで行く映画館の暗闇はまろやかで心地よい。ゆったりとソファに沈むと、ああ、ここにもまた安らかな場所があった、と私は思い当たる。暗がりが私の輪郭を同じ色に浸してゆく。私はいつしかその部屋の空気になじみ、じんわり溶けていく。

いま私はこっそりと私の舞台を降りている。私であることを手放し、ちょっとだけ自由を手にしている。キャラメルとバターのかかったポップコーンを——これもまた美味しくって、つぎの食事が要らなくなるくらい満たされてしまう “悪い味” だ——頬張る。音楽が流れ始める。映画のめくるめく物語にしばし夢中になろうと、誰でもない私はただ期待に胸をふくらませる。

映画が終わると、自由の手ざわりのようなものはすうと消えていく。でももうその頃には、よし、やるだけやってみようという心地になっている。観客がいてもいなくても、美しくなくても無様でも。与えられた舞台や役があるだけ、きっと何も無いよりは良いのだ。

“悪い味” は私を、ふたたび私を舞台上へと奮い立たせるあたたかい滋養なのだと思う。





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なんでもない私のつぶやき、


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