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歴史・人物伝~関ケ原編⑨「豊臣家は自分が守る」福島正則

歴史・人物伝~関ケ原編の第9回です。

今回からは、関ケ原の合戦に参陣した武将たちの銘々伝を書いていきます。最初は福島正則ですが、その前に合戦に至るまでの経過(関ケ原編①~⑧)について触れておきます

関ケ原に集結する両軍

上杉討伐のため東へ向かった徳川家康と豊臣家恩顧の大名による東軍。その間隙をぬって、石田三成、毛利輝元、宇喜多秀家らの連合軍である西軍が決起しました。※詳しくはブログ版をご覧ください

東の美濃方面へ進む西軍に対し、家康は上杉包囲網を敷いたうえで、東軍を西へと反転させました。豊臣家恩顧の大名らの奮闘で、岐阜城を陥落させた東軍に対し、西軍は大垣城を拠点に対峙(たいじ)するのです。

9月14日に家康が大垣城近くの赤坂へ到着すると、西軍は全軍を関ケ原に移動して布陣します。これに合わせ、東軍も関ケ原への進軍を開始し、15日朝までには布陣を完了。間もなく開戦の火ぶたが切られます。

三成を憎んだ福島正則

福島正則は、上杉討伐か西への反転かを決める「小山評定」で、真っ先に発言して西軍との対決姿勢を明確にするなど、東軍に属する豊臣家恩顧の大名の中で最も影響力を発揮した武将です。

正則は「自分が最も豊臣家に近く、秀頼を守るのは自分をおいて他にない」との意識が強い人物です。戦場での働きが第一と思っている正則には、三成が奉行職として豊臣政権の中枢にいることが不満でした。

以前に加藤清正らと組んで、三成を襲撃するという事件を起こしています。この時、三成は奉行職を解かれ、蟄居(ちっきょ)させられましたが、そんな身でありながら軍事行動を起こした三成を許せなかったのでしょう。

正則が本気で敵視していたのは、西軍でも三成や小西行長ら少数だったかもしれません。ですが、根っからの武人である正則は「戦場で相対する者は全て倒さねばならない」と思ったに違いありません。


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