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歴史・人物伝~関ケ原編⑩「死一等を減ぜられた」宇喜多秀家

歴史・人物伝~関ケ原編の第10回です。

関ケ原の合戦で西軍の最大軍事力を持っていたのが、備前(岡山)の領主・宇喜多秀家です。この時秀家は28歳の若さでしたが、徳川家康や毛利輝元、上杉景勝らとともに五大老に列していました。

石田三成や三奉行の招請に応じ、輝元とともに大坂城入りした秀家は、大坂に詰めていた総大将の輝元に代わり、西軍の主力部隊として伊勢方面の攻略を行い、その後関ケ原の合戦に臨みます。

しかし、合戦で西軍は惨敗し宇喜多軍も壊滅。敗走した秀家は、島津氏にかくまわれていましたが、家康と島津氏が和睦したことで身柄を引き渡され、八丈島に遠島処分となります。

本来なら三成らと同じように死罪になるところですが、秀家の妻は前田利家の娘であり、秀吉の養女だった豪姫。家康が前田家や豊臣家に配慮した結果、秀家は「死一等を減ぜられた」のでした。

二度と本土の地を踏むことのない遠い八丈島で、秀家は約50年生き抜きます。過酷な環境だった半面、戦いや権力に振り回されずに穏やかな生涯をおくれたのではないでしょうか。

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