異端者達のフォークソング(短編小説)

イメージ曲 ( 異端間交流 / 加盟田スケジュール)



 正直村は怒りに満ち、嘘つき村は悲しみに暮れる。

 僕と萩木(旧姓:浜枝)みみ子が撲殺島にあるカテーテル婦人の屋敷で新婚初夜を過ごしていた頃、僕らがそれまで住んでいた恋川のマンションがどうやら全焼したらしくて、お隣さんや大家さんもみんな亡くなったそうだ。
 ふむ、悲しいという訳ではないけれど、どことなく寂しい。去年、生まれ育った実家が売却され両親が「せっかくだし」と僕も両親も行ったことのない県に引っ越しちゃったときも同じ感覚だった。自分の人生においてそこそこの長さを占めた場所や建物を喪失することは寂しいものだ、と二十歳にして気がつく。
 起き抜けに火災の報せを受け、動きたがらないみみ子ちゃんに感想を求めてみたが、
「興味ない」
 だけで終わった。みみ子ちゃんは興味ないことは興味ないで終わらせる二十歳のピアニストで、僕はそんなみみ子ちゃんのことが大好きな二十歳のDTMerだった。
 それ以外の肩書きがない僕らは、いまは音楽で収入を得て暮らしている。メジャーレーベルと契約をしているとか、動画サイトや同人CDでブレイク中、という訳ではない。物好きなカテーテル婦人がパトロンになってくれているのだ。僕らはただカテーテル婦人の依頼に応えてカテーテル婦人の生活を彩るための音楽を作れば、それで生きていけるのだ。
 歯を磨いて髭を剃って髪を整えて、みみ子ちゃんのご飯を作って、「カテーテル婦人のところ行ってるね」と告げる。「んー」と手をひらひらするみみ子ちゃんが可愛くて、おでこにキスをする。みみ子ちゃんはお皿でも眺めてるみたいな平淡な表情をしていた。何か考えているのだろうか。
 部屋を出て長い廊下を歩き、カテーテル婦人の部屋のドアに辿り着く。ノックする。入室の許可を得る。失礼します、と言って入る。
 カテーテル婦人が真っ黒なワンピースを着て籐椅子に腰かけている。目が合うと、おはよう、と微笑まれる。
「おはようございます、カテーテル婦人」
「おはよう、荻木さん」
「萩木です。昨夜はありがとうございました」
「いえいえ、貴方の音楽はこのカテーテル婦人の生活を潤わせてくれていますから、お返しに貴方の生活の潤滑剤として行動するのは当然のことです」
 カテーテル婦人はそこで席を立ったかと思えば、傍の冷蔵庫から葡萄をひと房持ってきて水で軽くすすぎ、皿のうえに盛り付けて卓上に置いた。
「お座りなさい。本題に入りましょう」
「はい」
 籐椅子に腰かける。この座り心地にも慣れたな、と思う。
「貴方に新しく曲を作っていただきたいのです」
「どのような曲でしょう」
「フォークソングです」
「フォークソング?」僕は何かの聞き間違いかと思った。「フォークソングって、あの、民謡のような? 電子楽器を使わない音楽のことですか?」
「ええ。生楽器を打ち込みで代用することは許可しますが、リードシンセやスクラッチ、電子的なドラム音などは廃していただきたく」
「……今までいわゆるEDMばかりだったので少々驚いていますが、今までのような、踊るための楽曲ではないのでしょうか」
「はい」カテーテル婦人は頷いた。「今回、このカテーテル婦人は撲殺島の島歌を制作しようと試みています」
「島……歌。それは県歌や市歌のようなものでしょうか」
「ええ。その理解で問題ありません。作詞とメロディはこのカテーテル婦人が担当しますので、貴方は編曲をお願いします」
「詞とメロディはもう完成していますか」
「もちろん。お請けいただければデータを貴方のパソコンに送信しますよ」
「畏まりました。納期はいつごろで報酬はいくらですか」
「納期は二週間後」カテーテル婦人はピースサインをした。「報酬は前金と合わせて二十二万円です」
「請けます」即答してしまった。でもいつもより高いからしょうがない。「誠心誠意、全力を以て取り掛からせていただきます」
「その言葉を待っていました。ではこちら前金として十万円お渡しします」カテーテル婦人は茶封筒をこちらに差し出す。
 僕が恭しく受けとると、カテーテル婦人は言う。
「ああ、生楽器を打ち込みで代用してもいいとは言いましたが、ギターは生演奏がいいのでよろしくお願いいたします」
「え」
 それは――先に言ってほしい。

「ギター? なんだっけそれ、前のマンション住む前に売ってたやつ?」
「うん。何せ、からきし上手くならなかったからね」
 みみ子ちゃんの待っている部屋に戻り、依頼内容を伝えると、言語化によって状況の苦しさが明確になった。僕はギターを弾けないし持ってもいない。みみ子も同じだ。ピアノとギターは違う。姿勢からして違う。二週間練習すればそれなりになるだろうか。そもそもギターの調達は? 通販って撲殺島に届くまで一週間くらいかからなかったっけ?
「どうするの? 請けちゃったんでしょ」
「うん」
 自分のパソコンを開くと、もう共有ファイルにデモデータがアップロードされている。メロディだけのMIDIデータと、歌詞のテキストデータ。今更取り止めるとなると厄介だし、そういう話し合いは苦手なのだ。
 どうにかしないとならない。生演奏のギターが必要なのだ。僕は弾けないし買っても間に合わない。
 ……前金の十万円。もしかして、いつもよりも額が大きいのは、だからか? そこも計算して増やしてくれたのか? カテーテル婦人は。
 やれやれ。僕は後頭部を掻いて、棚から島の地図を抜き取った。
「どうするの?」
 みみ子ちゃんは言った。
「取り敢えず、あいつのとこに行こう」
 僕が答えると、みみ子ちゃんは、ああ、と頷いた。
「前に言ってた、《宇宙人》?」
「うん」

 撲殺島の《宇宙人》こと五月蝿優雅はもう三年は島民をやっていて、三年間で《宇宙人》と呼ばれるまでに目立った。というか悪目立ちをした。そもそも初手で住居を廃墟同然の塔、『やかまし塔』にしたところから既に変な奴だ。それから他人のペットを誘拐してオリジナルの芸を仕込んで返したり、書店で買った本を海外のマイナーな言語に翻訳して書店に売り付けようとしたり、島の暇人を集めて夜中にゲリラライブをしてカテーテル婦人にトンカチで殴られたりした……らしい。全てカテーテル婦人に聞いただけだ。
 でも、彼はゲリラライブをしたのだ。カテーテル婦人いわく五月蝿がボーカルで、他にベースとドラムとギターの役がいたらしい。熱狂している暇人も多かったそうだから、演奏はへっぽこではないはずだ。
 だから僕は《宇宙人》五月蝿優雅の住む『やかまし塔』の戸を叩く。ややあって、入塔許可が降りる。
 みみ子ちゃんは言う。「私は初対面なんだよねえ。興味なかったから」
「今は興味あるの?」
「なくはない」
 塔のエレベーター(真新しい。増築したのだろうか)で最上階まで到達すると、すぐ傍の階段を見下ろす、背の低い男が目に入る。
「ハロー、《宇宙人》」と僕が言うと、
「ハロー、《接続不能》」と五月蝿は言い、「階段で来いよ。ドロップキック、練習したんだぜ?」なんて言って残念がった。
「言いたいことはあるけれど、取り敢えず、《接続不能》って言うのは何かな」
「お前が名乗っている通り名だ」
「名乗ってねえよ」
「名乗っているって話をじわじわ蒔いてる途中。造語ではない辺りがより中二病っぽいだろ」
「なんで新婚早々ご近所さんに中二病扱いされなきゃならないんだ? 《宇宙人》式おもてなしか?」
「俺だって《宇宙人》なんてあだ名には困ってるんだ。島の子供が宇宙飛行士になる方法を教えてくれなんて言ってくるんだぜ。適当なこと吹き込む身にもなってくれ」
「適当なことを吹き込むなよ。《宇宙人》どころか人でなしじゃねえか」
「ねえ」みみ子ちゃんが不機嫌そうに言う。「興味ない」
 それでふたりとも黙る。本当に不機嫌そうな顔だったのだ。
 五月蝿は僕達を、客間らしき清潔な部屋に招き入れた。飲み物はとくに出さなかった。そりゃあそうか。
「で」五月蝿は僕の顔を見て言った。「用件は?」
「ギタリストの知人はいない? アコースティックギターが弾ける人間。いたら、紹介してほしい」
「いるとも」五月蝿はにっこりと笑んだ。「ぶっ飛んでるけどな」
「ぶっ飛んでたっていいよ。どうせそんなことだろうと思ってたし……」
「いや、記憶がな?」

 五月蝿優雅の知人女性に、幼少期からクラシックギターを触っていたという人間がいるのだが、最近の彼女はどうやらその幼少期の記憶も含めて全て忘れてしまっているらしい。
 どうして?
「あいつは……焼津って言うんだけど、焼津にはひとり娘がいたんだよ。ずっと品行方正に育てて、なんでも仕込んで、それはそれは素敵なお嬢さんに仕立て上げた。恋川の制作会社で働きたいってんで、島から送り出したんだ。で、つい最近出戻ってきた。それから記憶を失ったんだよ」
 五月蝿の話がそこで終わった。僕は訊く。
「その娘に何かがあって、そのショックで?」
「さあな。だが、確実なのは、焼津が記憶がなくなってから、焼津の娘の姿もなくなっているってことだ」
「え」
 つまり……記憶喪失と、失踪?
「本当に、もう誰も焼津の娘の姿を見ていないんだ。島の人間みんな、誰も」
「……ねえ、他にギタリストの知人は?」
「いねえよ。島内にもいないぜ、だってこの島にはまだ楽器屋がないからな。あるのはカテーテル婦人が拵えたダンスクラブくらいのもので、ライブだって、島内に三人しかいない、楽器を持ってる住民を頑張って集めたんだ。散らばってたから本当に大変だったんだ」
「そうなると……その焼津さんに記憶を取り戻してもらうしかないけれど……どうしよう」
「自分で考えろ。俺はもうライブをやりたいと思っていないから、このままでも不都合はないんだ」
 五月蝿はそう言って、座っていたソファに寝転がる。初対面の人間と二回目の人間の前でどうしてそこまでリラックスできるのだろう。
 とにかく、どうしよう。記憶喪失ってどうやったら治るんだ? 頭でも殴ればいいのか? 記憶が戻るような威力のパンチは持ち合わせていないけれども。それとも記憶を甦らせる薬を……いやいや。もっと現実的に考えよう。
 記憶を甦らせたい訳じゃない。僕はギターを弾いてほしいのだ。
「五月蝿」僕は言う。「焼津さんの家の場所を教えてくれる?」
「あ? ちょっと待ってろ」
 五月蝿はかったるそうにソファから起き上がると、島内の地図を持ってきてくれる。そして床に落ちていた青いマジックペンを拾い上げると、だいぶ大雑把なバツ印を付けて、
「ここ」
 と言った。それ以上は望めなさそうだった。
 まあ、最低限の情報を得ただけでもよしとするか。
 会釈を交わし、出ていこうとしたところで、五月蝿は僕を呼び止める。そういえばよ、と。
「そういえばお前、なんだってギタリストを募集してるんだ?」
「ああ、カテーテル婦人からの依頼のためだよ」
「……聞くんじゃなかった。俺はあの女の手下に手を貸したってことかよ。二度と来るな」
 ふむ。
 寂しいけれど、カテーテル婦人と五月蝿だからしょうがないか。

「焼津さん? もちろん、このカテーテル婦人は把握していますよ」
 カテーテル婦人はそう言うと、棚からファイルをひとつ抜いてテーブルに置いた。そこには女の人の横顔に『焼津珠』と添えられていた。やいづたま。経歴がずらずらと載っている――経歴の末尾には、ごく最近の日付で「記憶を喪失?」とあった。
「焼津珠さんは娘の椎夏さんを出産してすぐ夫を亡くし、それから紆余曲折あって撲殺島に流れ着きました。以降、子育てをしながら撲殺島の開拓に貢献し、島民の集まりでギターを弾いていました。このカテーテル婦人も、彼女が記憶を失っていなければ、荻木さんに紹介したうえでフォークの制作を依頼していたことでしょう」
「萩木です。あの、焼津珠さんは椎夏さんに色んなことを仕込んでいたと聞きますが、間違いありませんか」
「ええ、そのようでした。字の書き方や礼儀作法に始まり、身体の動かしかた、化粧の塗りかた、絵の描きかた、歌の唄いかた、楽器の弾きかたなんかも」
 楽器の弾きかた。
 よし、と僕は思う。焼津椎夏は母からギターの弾きかたを教えてもらっている。ならば、行方不明の彼女を見つけ出せば、ギタリストになってくれるかもしれない。
「ありがとうございます、カテーテル婦人。ちょっと椎夏さんを捜してきます」
「あら、そうですか。でしたらこちらを持っていってください」
 カテーテル婦人が差し出してくれたのは島内の地図。五月蝿の地図とはうってかわって、丁寧に印がついている。
 丁寧に。
 ひとつひとつ丁寧に、しっかりと塗り潰し、印して――そうしてゆっくりと真っ赤に染め上げられたのであろう島内地図。
「赤く塗られているところは、既に三度、捜索した場所です」
 マジっすか。

「えー絶望じゃない? 諦める?」自室に戻って地図を見せるとみみ子ちゃんが言う。「頑張れるの? ここから」
「頑張るしかないし、どうにかするしかないね。焼津珠さんに記憶を取り戻させるか焼津椎夏さんを捜し出すか。同じくらいの難易度に思える」
「んー……ねえ、焼津さんは今もギターを持っているのかって確かめたっけ」
「え?」
「だって弾きかた解らないんでしょ。だったら、邪魔だとかで捨てちゃったかも。思い入れも忘れてるんだろうし」
 背筋が凍る。もしもそうだったらこの島にはもうギターがない。記憶が戻ろうと椎夏さんが戻ろうと意味がないじゃないか。
「焼津さんの家に行こう。行って、確認してくる」
「そうだね、行こう」
 もうすっかり夕暮れになってしまったが、僕達は再び屋敷を出て、五月蝿の地図を見ながら焼津さんの家を捜した。やっと戸を叩けたときには、既に夜のとばりが落ちていた。
 焼津さんはがらりと戸を開けて、
「どちらさま?」
 と言った。ぽかんとした表情だった。中年のぽかんとした表情を、僕は久しぶりに見た気がする。少し太った中年女性。でもどことなく若々しさがあって、これはギターを弾いてもおかしくないな、と思った。
「やあ、すみません。初めまして。カテーテル婦人に雇われた音楽家です。この度は焼津さんにギターを弾いていただきたく馳せ参じました」
「あらー……そうですか」焼津さんは困った顔で言う。「ごめんなさい。あたし、生憎、記憶がおかしくて。ギターをすっかり忘れてしまってるんですよ。どこを触ればいいかも解らなくて」
「はい、存じております」僕はなるべく恭しく頷く。「使っていたとおぼしきギターは、廃棄などされましたか?」
「いいえ。なんだか捨ててはいけない気がして、押入れに」
「ありがとうございます。これからも捨てないでいただけますか?」
「ああ、はい、それは、大丈夫です」
「ありがとうございます。今晩はこれにて失礼させていただきます」
 礼を交わして、僕とみみ子ちゃんは焼津さんの家の玄関を離れた。
 島にひとつだけのコンビニエンスストアに立ち寄り、カフェオレをふたつ買った。暗い夜のベンチに並んで座って飲んだ。曇り空で月は見えなかった。みみ子ちゃんの冷たい手をぎゅっと握ってみるけれど、握り返してはこなかった。体温に興味がない子なのだ、そもそも。
 屋敷に戻るとカテーテル婦人はもう就寝しているようだった。まだよい子も寝ないような時間だったけれど、たくさん寝るタイプだからしょうがない。僕達も今日のところは休むしかなさそうだ。
 パソコンでカテーテル婦人からのMIDIデータを元にトラックを打ち込んでいると、みみ子ちゃんが覗き込んでくる。ピアノを弾いてもらう。楽器構成としてはスチール弦ギターとピアノとベースとパーカッションにする予定で、ベースとパーカッションは打ち込みで済ませる。だからあとはギターだけなのに。
「焼津さんは諦めてさ」みみ子ちゃんは言う。「ネットでギター弾いてくれる人を募集したらいいんじゃない?」
「忘れたの、みみ子ちゃん。僕達はSNSや掲示板を禁止されているじゃないか」
「ああ……そうだね」
 僕達はカテーテル婦人の屋敷で養ってもらうにあたって、いくつかの条件を受け入れた。そのなかのひとつに、そうした『ネット上での他人との繋がりの禁止』というのも含まれている――「インターネットの人間ほど、くだらなくてマイナスな人種はいません。インターネットそのものが、ロクなものではありませんから」とのこと。カテーテル婦人の経歴を知っている僕達からしたらそれは否定しづらいものだし、ネットでの交流をせずに悠々自適に暮らせるのなら、メリットの方が大きい。
 でもまさか、それがこんなところで足を引っ張るとは。
「じゃあ焼津さんを追うしかないんだね」
「うん。大変だけど、付き合ってほしい」
「それは言うまでもないよ」みみ子ちゃんは笑って言う。「だって私かカテーテル婦人がいないと、君はまともじゃないんだから」
 部屋の冷蔵庫とキッチンで晩御飯を作る。食べる。浴場に一緒に行く。洗って温まる。部屋の電気を消してベッドに入る。閨事。おやすみなさい。


 誰にも起こされないままむくりと起きて、まだ寝ているみみ子ちゃんを起こす前にベーコンを何枚か焼く。さらにハムチーズトーストを作って皿に盛り付けて卓上に並べ、牛乳をふたりぶん注ぐ。その作業の間に起きてくる。
「おはよう。腰は平気?」
「昨日よりは」
「今日は食べたら島内を散歩しようと思ってる。もしかしたら焼津さんからギターを教えてもらった人が他にもいるかもしれないし」
「わかった」
 身支度をして、カテーテル婦人への挨拶と編曲デモのチェックを済ませて、外に出る。みみ子ちゃんがゼリーを食べたいというのでコンビニエンスストアに向かう。
 店に入るときに焼津さんとすれ違う。
「あ、焼津さん」
 咄嗟に声をかけると、焼津さんはぺこりと一礼してから、少し急ぎ足で行ってしまう。
「なんか、持ってたね。段ボール箱?」
「コンビニ受け取りで配達してもらったんだろうね」
 でも、何を? 親族などから野菜が届くとしたら、ストレートに家に届けられそうなものだ。だとしたら通販だろうか。
 少しだけ中身が気になったが、本人にわざわざ訊きに行くのも警戒されるだろうし、店員が教えてくれるとは思えない。僕達は大人しくゼリーを買った。
 ひんやりとしたフルーツゼリーを楽しみながら歩いていると、焼津さんの住居を通りかかった。その傍で主婦が寄り集まって何やら話していて、少し聞き耳を立ててみると、どうやら焼津さんの話題のようだった。
「あの、すみません」と僕が声をかけるとあからさまに訝しまれた。とりあえず焼津さんの知人だったという設定でいこう。「怪しい者ではないんです。僕は以前、焼津珠さんによくしてもらっていたのですが、しばらくお会いしていないうちに記憶を失われたと聞いて。どういう状況なのか、お訊ねしてもいいですか」
「珠ちゃんねえ」主婦のひとりが言う。「あの人急に記憶なくなったと思ったら、あたし達みんなにビクビクしてて、世話しようかって言ってもいらないって言うし、お風呂、ほら近くにお風呂屋さんあるじゃない、誘っても断るし。正直、あんまり期待しないほうがいいよ」
「世話をしている人はいないんですか?」
「いないはずだけど。記憶なくしてギターの弾きかたすら忘れてるんだから困ってると思ったのに、断るんだもんね」
「ねー」
「珠ちゃんなんだか変わったよねえ、椎夏ちゃん戻ってきて、いなくなっちゃってからよねえ」
「そうですか……ありがとうございます」
「本当に期待はしないほうがショック少ないよ」
「はい。……ああそうだ、焼津珠さんがギターを教えていた人って椎夏さん以外に誰かいましたか」
「さあ……知らないけど」
「わかりました、ありがとうございます」
 主婦集団から離れて少ししたとき、みみ子ちゃんが言う。
「ねえ、おかしくないかな」
「おかしい? いったい何が」
「まず、焼津珠さんは記憶を失っている」
「うん」
「手続き記憶もエピソード記憶も消えているから、子供の頃から練習していたギターの弾き方を忘れているし、それまで周囲にいた人のエピソードも覚えていない」
「そうだね」
「だけど通販でコンビニ受け取りを指定して受け取るまでのプロセスについては覚えている。ひとりで出来る。ねえ、どうして?」

 無難に考えてみる。そもそも習慣になったことや練習してきたことを忘れたのなら独りで生活することは不可能に近いはずだ。どんな道具の使い方も解っていないのだから。
 つまり誰かが世話をしている。誰が?
 消えたとされていた椎夏さんだろうか。ずっと家のなかにいるからいなくなったみたいになった――ああ、でも、それだったら近所の人のひとりくらいは椎夏さんの存在を認識していてもおかしくないか。代わりに家事をしていると考えたなら外に全く姿をさらさないという訳にもいくまい……物干し竿は庭にあった。
 それに、そもそも誰かが世話をしていたとしたら、単独でコンビニエンスストアに行かせるということはしないんじゃないか? 本人が言って聞かなかったとしても付き添うのが普通なんじゃないか?
 いや、焼津椎夏さんの人格によっては解らないかもしれない。
 理解したいのなら、もっと焼津椎夏さんについて知るべきなのだ。
 そういう訳で僕とみみ子ちゃんはカテーテル婦人の部屋に行き、焼津椎夏さんについて詳しく聞かせてもらった。顔は母親似だった。
「ざっと経歴を教えますが、椎夏さんは乳幼児の頃から焼津珠さんと共に撲殺島に渡っていて、小学校から高校までずっと島内の学校で学んでいました。非行歴はなく品行方正で、これは珠さんの教育の賜物でしょうか。しかし部活動などでは活発に取り組んでいて、学校祭においては演劇部の出し物の盛況に一役買ったとか。そしてその劇が恋川からやってきていた社員の目にとまり、椎夏さんの就職に繋がりました」
「へえ。なかなかに綺麗な経歴ですが、性格のほうはどうだったのでしょう。品行方正というのは振る舞いであって性格ではないと僕は思います」
「振る舞いも性格の大事な一部分だと、このカテーテル婦人は思います。それはさておき、そうですね、実は何度かお会いしたことがあるのですが、はっきり言って、臆病な方でした」
「臆病」
「その臆病さが、親から仕込まれた技術や振る舞いをひたむきに身につけさせていたのでしょうね。自分の意思や好き嫌いで取捨選択をするなんて怖くてたまらないでしょうから」
 そう表現されると、なんだか――。
「なんだか、私とは正反対だね」みみ子ちゃんは言った。「私は自分の意思と好き嫌いを封じて唯々諾々になることのほうが怖い。言われてることが本当に正しいのか、私を幸せにするのか、考えて取捨選択したい」
「みみ子さんは素敵ですね」
 カテーテル婦人は朗らかに笑った。カテーテル婦人はみみ子ちゃんの人間性に手間をかけさせられた側のはずなのに……それを言ったら僕の人間性もそうなのだろうけれど。
「あと、もうひとつ思ったこと言ってもいいかな」
「ええ、なんでもいいですよ」
 とカテーテル婦人が言うと、あのさ、とみみ子ちゃん。
「私、どういうことが起こっているのか解ったかも」

 そして夕方、焼津さんの家の前でみみ子ちゃんに言う。
「何か危ないことが起こったら、なるべく大きな物音を立てるから、すぐ通報してほしい」
「うん。ねえ、本当にいいの、ひとりで」
「大丈夫。どうにか上手くやるよ」
 僕はみみ子ちゃんの頬っぺたにキスをして、焼津さんの家の呼び鈴を鳴らす。
「はい、はい。……ええと、たしか、ギターの」
「はい。以前訪問しました萩木です。アポイントメントを取らず申し訳がありませんが、今回、焼津さんに持ちかけたい取引があってきました」
「……そう言われましても、あたしは記憶がおかしいもので、役に立てることなんてありませんよ」
「いえ、そう身構えないでください。安心してください、害意はありません。そうですね、説明のためにお見せしたい資料がありますので、ひとまずお邪魔させていただけませんか」
「……そうですか、では、お入りください」
 焼津さんはそう言って僕を招き入れた。ふむ。
 玄関から廊下に足を踏み入れてみると、なるほど、これはたしかに散らかっている。マニキュアの瓶や書籍や紙やぬいぐるみなどが散乱していて、まるで子供の独り暮らしのように見える。
 まるで掃除や片付けをしていないみたいだ。
 掛け軸や絵が飾ってある部屋に通される。向かい合って座布団に座る。
「それで」焼津さんは言った。「取引というのは」
「ああ、それは嘘です」
「え」
「おっと怒らないでください。嘘に嘘で対抗しただけですよ、焼津椎夏さん」
「……失礼ですが、人違いをされているのではないですか。というか、失礼です、帰ってくれませんか」
「いいえ……僕は人違いなんてしていませんし、人殺しに比べたらだいぶマシな行いだと思います」
「さっきから、なんなんですか」焼津さんは僕を睨みつけた。「あなた、記憶喪失のあたしをからかっているんでしょう。あることないこと吹き込めば、混乱してくれると思っているんでしょう」
「それでは焼津さんにお訊きしたいのですが、あなた、今朝コンビニエンスストアで配達物の受け取りをされていましたね。コンビニ受け取りということは恐らくは通信販売の荷物だと考えられますが、ギターの触りかたも覚えていないあなたがどうしてその行程を辿れたのですか?」
「あなた、あたしの記憶喪失を疑っているのね」
「はい。答えてください」
「そんなこと、忘れていてもインターネットで調べればすぐじゃない」
「へえ、インターネットで調べればすぐ。なるほどなるほど、つまりあなたはインターネットで調べればすぐ通販について理解できるくらいには、独りでコンピューターとブラウザを立ち上げ検索するための文字を打ち込むプロセスを記憶している訳なんですね」
「揚げ足とりみたいなこと言わないで。教えてもらったら解ります」
「教えてもらったら――どなたにですか? 聞けば、あなたは近所の知人だったであろう方々と距離を取り、援助の手も断っているそうじゃないですか。どこの誰に教わったのですか? まさかたまたま読んだ本に書いてあったとでも?」
「たしかに近所の人とは話してないけど、この島にいる以上、最初はカテーテル婦人に頼る必要があるでしょう? そのとき生活の基礎として――」
「ああ、もういいです。これ以上は聞くだけ無駄ですし、語るだけ墓穴ですね、焼津椎夏さん」僕は彼女の目をじっと見て言った。「何故ならあなたは、インターネットそのものがロクなものではないと断言するカテーテル婦人が、可哀想な記憶喪失者に、自分が信頼していないツールを推薦するとお思いなのですから」
「何、何? 何が言いたいんだか解んない!」
「あなたは記憶喪失者のフリをしている」
「はぁ!?」
「焼津珠のフリをするために――記憶喪失者のフリをしている、嘘つきなんでしょう? 殺して成り代わるにあたって、周囲の人間関係やエピソードとの齟齬が起きないように」

10

「あ、あた、あたしが誰を殺したって」
 焼津さんは信じられないようなものを見る目をしていた。僕は一度、みみ子ちゃんの推理を脳内で反芻してから、口を開いた。
「焼津椎夏さん、あなたは実の母の焼津珠さんを殺した。シングルマザーで厳しく育て、『品行方正な娘』として仕込んだ珠さんのことだ、きっと娘の行動に『どこに出しても恥ずかしくなさ』を求めたことでしょう。そこまででもなかったとしても、カテーテル婦人いわく臆病な椎夏さん、あなたは、仕事を辞めて実家に無職で戻ってくることがとても怖かった。だから精神を責められることなく島で暮らすために、母親を殺した。そして自分が焼津珠になり、焼津椎夏は失踪したと見せかけた」
「そんな……そんなこと、そんな簡単に殺すとか、それに、成り代わるって、親子の年齢差があるから普通は無理ですよね。でたらめやめてください」
「椎夏さんは珠さんに色々なことを仕込まれました。字の書き方や礼儀作法に始まり、身体の動かしかた、化粧の塗りかた、絵の描きかた、歌の唄いかた、楽器の弾きかた。ここで重要なのは化粧の塗りかたと絵の描きかたです。……そこにある掛け軸も絵も、椎夏さんの名前が入っていますね?」僕は部屋のなかのそれらを指差した。「とてもとてもお上手だ。絵なんてとくに、写実的で、陰影や質感の表現が素晴らしい。どこか硬い気がしますが、これらが珠さんの仕込みなのだとしたら、その矯正感も頷けますね」
「だから、何?」
「絵でこれだけのクオリティを出せるのなら――その技術の加算されたメイクはさぞハイレベルなのでしょうね。そう、演劇部で美術とメイクの係なんかやったら大活躍、制作会社にスカウトされてもおかしくないくらいなのでしょう――顔を老いさせるメイクだって余裕で出来ちゃうかもしれません」
 元から母親似の椎夏さんなら、老いさせてから多少肉を増やしたりするくらいでいいはずだ。殺したばかりの母親の顔を見ながらやれば完成度は保証される。
「コンビニ受け取りを使ってまで注文したのは、消耗してしまったメイク道具でしょうか。あなたはそうして、焼津珠の人生を、どういう計画かは知りませんが、手に入れたんですよ」
 焼津さんは何も言わない。少し待ってみる。ここで包丁でも持ち出してきたら、あるいは首を絞めようとしてきたら、こちらはどうにかガラスを割ってみるつもりだが。
 まあ仮に僕の殺害に成功したとしても、みみ子ちゃんという目撃者がいるお陰で「焼津家に入ってから失踪した」というリスキーな現実を産み出すだけだ。どちらにしよ、有効な手はないように思える――理性的に考えるなら。
 さてはて焼津椎夏は感情的に行動した――動き出すことなく、肩を震わせて泣き出した。
「通報したかったら、たかったら、うふ、ぐす、すれば、すれ、すればいいでしょ」
「……通報?」
「あたし、もう、頑張ったもん。いっぱい頑張ったもん。真面目にやるために頑張ったし、優秀になるために頑張ったし、どうにか楽しい劇を作れるように頑張ったし、社会人として役に立てるように頑張ったし、みんなのために色んなこと我慢できるよう頑張ったし、ちゃんと幸せになれるよう頑張ったもん。でも、もう、駄目なんだ、駄目なんでしょ、うぐ、けっきょ、結局あたし、お母さん、お母さんがいないと頑張ったって駄目なんでしょ、お母さんから離れてから全部駄目だもんね、頑張ったって駄目なら、もう諦めるから、捕まえてよ」
「勘違いしないでください。通報なんてしません。僕はあなたの悪事を暴きはしても、裁きはしません」
「え、え、え?」焼津椎夏は涙の流れる目を白黒させてまごついた。「じゃあ、何? 何がしたいの、何?」
「あなた、ギターは弾けますか。スチール弦ギターです」
「え、まあ、少なくとも素人よりは、子供の頃からやってたから」
「結構です。じゃあ明日、僕の作ったデモと譜面を渡すのでいい感じに録音してください」
「え、なんの話」
「僕はただ、あなたの弱味を握ってることを伝えたら無料でギターを弾いてくれるだろうと思っただけなんですよ」僕は立ち上がり、正座している焼津椎夏の頭をそっと撫でた。「あなたは僕のギター奴隷としてずっと僕の曲のギターを弾くんだ。そうしている限りは警察にはつき出さないから、のうのうと生きていればいい。平和に焼津珠として生きていればいい」
 そこまで言ってから、別に取引って言うのは嘘じゃなかったな、と思った。まあ、嘘から出たまこと、ということでひとつ。

11

 翌週、カテーテル婦人への納品を無事に終えて、残りのお金を受け取る。島のレストランでみみ子ちゃんと贅沢なディナーをする。
「そういえばギター奴隷ってあれからどうなったの?」
「焼津さんのことギター奴隷って呼ぶことにしたの? いいけど。んー、まあ、もしかしたら屋敷の離れに引っ越すかもね」
「え、そうなの?」
「うん。僕がカテーテル婦人に掛け合ってみたんだ。だってあのままじゃあ、いずれ生活費もメイク道具も尽きちゃうからさ。刑務所よりも幸せな生活をさせないと自首するかもしれないでしょ?」
「へえ」
 美味しいご飯を食べ終わり、悠々と支払って外に出ると、これから入店なのだろう、五月蝿と遭遇する。《宇宙人》。
「よう、バター犬。カテーテル婦人なんかに媚売って稼いだ金で豪遊かよ」
「そうだよ。いいだろ、一曲で二十万以上だ」
「ちぇっ。こっちはこの島での最後の夜に旨いもん食おうって意気だってのによ」
「え、そうなの? どうして?」
「ふざけんな。あのクソ女とお前が作った曲が撲殺島の島歌になるってんだろ? 住める訳ねえだろ馬鹿野郎」
 不機嫌そうに入店する背中を見送り、僕とみみ子ちゃんは坂を下る。夜の静けさと涼しさが手を繋ぐ僕達を取り囲む。空が澄んでいて星が見える。みみ子ちゃんはじっと星屑を見つめていて、僕はその睫毛をじっと見つめている。
「ねえ、みみ子ちゃん。好きだよ」
 僕がそう言うと、
「私も好きだよ、君のこと」
 と言ってくれる。

12

 そして屋敷に帰って、部屋に戻ってベッドに潜って、眠る前にふと、
「それにしても五月蝿って、この島の外でどんな風に生きていくつもりなんだろうね」
 と言ってみた。
 するとみみ子ちゃんは僕に背中を向けて、こう言った。
「興味ない」
 それな。



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