面影橋の話
19歳の春に私は中絶した。
当時付き合っていた人から「今はどうしても無理だから」と頼まれて。
私も学生で望まれないならそうするしかないとわかっていたし、嫌だとは言えないまま、どこか遠くの出来事のように、手術を終えた。
病院の近くの公園に早咲きの桜が一本だけ生えていて、その日は3月の終わり頃だというのに、早くもはらはらと花が散っていた。
病院からの帰り道に終わらせてしまった命を見せつけられた気がして、その日から一本だけ咲く桜が散るところを見るのが苦手だ。
春休みが終わり、新学年になって、親しくしてた同級生には数日前の出来事を打ち明けた。
学校の近くを流れる神田川沿いを歩きながら、なんてことなかったと自分に言い聞かせるように。
その日、川沿いの桜はきれいに咲いていた記憶がある。少し日陰の道で花の盛りが遅かったのかもしれない。
それから、毎年あの日が来るたびに落ち込みながら、私は働いていた。
9年くらい経った頃だっただろうか。その冬に稼働したポップンミュージックの新作で面影橋という曲に出会ったのは。
忘れもしない。
同級生に打ち明けたあの川沿いの近くにかかっていたその橋の名前。路面電車の停留所名にもなっていた橋だ。
春の別れを歌う面影橋という曲を聴いて、私はようやくあの日の本心と向き合うことができた。
本当は泣き喚いて、拒否して、産みたかった。
すぐ日常に戻れるようななんてことないことじゃなくて、もっと悲しんで、苦しんでいたかった。
ふたつの桜の風景がフラッシュバックする。
まさか10年近く経ってから改めて突き付けられるとは思わなかった。
今も私にとって面影橋は少し特別な曲だ。
聴くたびにひたすら苦いあの日の記憶を思い出す。
だけどそれは嫌ではなく、私の中に残った罪悪感を忘れないでいられるから好きだ。
罪悪感を忘れてしまったら、あの子も居なくなってしまう気がするから。