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人類仮想化プロジェクト

Chapter1. 


AD2175 Tokyo

アシスタントAIの調子が悪い。

脳と直結して情報処理と記憶処理を支援するミクロチップ「インプラント」、そこにアシスタントAIが載っている。生活に支障をきたすような大きな不具合ではない。記憶の読み出しとAIのレスポンスに僅かな遅延が感じられる程度だ。

1週間前、雷鳥社製の最新モデルに換装したばかりだというのに…。

換装後の調整がうまくいかずに同様の症状が出ると聞いたことがある。前の大型プロジェクトの疲れもあるのかもしれない。

八島 真弓 16歳。

10歳で、薬師寺財団の奨学金を得て米国に留学。13歳でカリフォルニア工科大学の人工知能研究所で博士号を取得し帰国。史上最年少で国内最高峰の金融系コンサルティングファームのAI開発部門と業務委託契約を結び話題に。

今は、そのコンサルティングファームからの仕事を中心に、政府系システム、グローバル企業の基幹AIシステムなどの開発プロジェクトを単身受注している人気AIデザイナーだ。

「それでクロエ、今日の予定はどうなってる?」

声に出してアシスタントAIに話しかける。

シナプス直結型インプラントに搭載されてるAIなので、脳波で対話することも可能だが、真弓はできるだけ言葉を使うことにしている。

思考に近い速度でのコミュニケーションを選ばず、あえて言語化する癖が彼女にはあった。

言語化することで抽象度が低くなり、AIとの齟齬を最小限に止めることができるのだ。

「まず最初にHub3に届いているスカウト21件について相談させてください」

「えっ?クロエに判断できないスカウトがそんなにあるのは珍しいね」

「はい、これまでのルーティンでは意思決定できない種類の依頼が集中していまして…。」

クロエの言葉を聞きながら真弓はワーキングプラットフォーム「Hub3」のスカウト画面を開く。Hub3は、国を越えてプロジェクトを立ち上げることができ、メンバースカウトやVRチャット、ソースコード共有、支払いなどがワンプラットフォーム上で可能となっている。

眼前に広がったバーチャルスクリーン上のワークスペースに、スカウトメッセージが展開する。中には、能天気な音楽と映像が流れるメッセージも複数あった。

真弓は想定外のポップさに笑ってしまう。

それらのスカウトは、世界中のネットワークメディアからの、バラエティショー、ニュースショー、そしてドキュメンタリーなどへの出演を依頼する企画書だった。音楽番組やスポーツ中継への出演依頼もある。

「トップアイドル並みの人気ですね」と、クロエ。

「でもどうして、こんな依頼が?」

「休暇前、最後に担当したプロジェクトのせいかと…」

「東欧ビットバンクの接客AIよね?」

「はい、そうです。東欧ビットバンク社は真弓の設計したシステムを公開しました。全世界の10億人の投資者に対してです。真弓が休暇をとっている間にその投資者たちが接客AIと対話した結果、彼らはなんというか、そのシステムの虜になったみたいなんです」

「それは光栄ね」

「合理的で、効率性を重視しただけの投資アシスタントを行う従来のAIと異なり、投資者の期待や不安などの気持ちを読み取って自然に応対しながら、彼らが納得の行く形でプランを組めるAIの衝撃が大きかったのでしょう」

「あらゆる人格が受容されている多様性時代には、それに合わせたAI設計が必要なのよ。誰もそこを目指していなかったけどね。」

「ビットバンクの接客AIとして、想像以上に画期的だったようです。新規投資額も過去最高と出ています」

「あら、もっとギャラ貰えたかもね」

「はい、今後の価格交渉にはこの実績も組み込んでおきます。それで、ネットワークメディアを中心に『このシステムを開発したのは誰だ』と話題になりまして。それで、東欧ビットバンク社が、開発者である真弓の写真付きプロフィールを公表したのが4日前…」

「ええっなんてことしてくれるのよ。本人に許可も取らないで!」

「ああ、許可なら出しておきましたよ」

「クロエ!」

「評判になれば、スカウトもますます増えますから。あなたは、カリフォルニア工科大学時代に作った膨大な借金を返済していかなくちゃならないんですからね」

「仕方ないでしょ。私の研究にはお金がかかったんだから」

「とにかくそれで、開発者がまだ十代ということが世界中にバレてしまいまして…。尖ったキャラクタに敏感なネットワークメディアが自分の番組に一斉に登場させようと動き始めたというわけです」

「まったく。ヒマな話ね」

「人口の7割はベーシックインカムとビットインベストメントからの配当で悠々自適に暮らしていますから」

「それで、どうします?」

「どうしますって?」

「スカウトにはどう対応します?」

「ダメダメ。この手の出演依頼は適当な理由をつけて返事しといてね。誰かさんのおかげで上がった知名度は、AI開発の方で活かしていくわ」

「了解です」

「で、今日のスケジュールは?」

「まず、名古屋の武本薬品工業の開発支援AIの設計を行ってください。3日前に作成した八板バイオテック向けの仕様書が叩き台に最適ですので、ワークスペースに展開しておきます。仕様書が完成しましたら、Hub3上のプロジェクトルームで共有して、チームの意思を反映します。作業時間は、45分でよろしいでしょうか?」

「余裕よ」

「次に、カリフォルニア工科大学の八島博士との仮想面談。こちらはタイムシフト会議ですから実質10分くらいでしょう」

「八島博士、お元気かしら。楽しみだわ」と、真弓が表情を緩ませる。

「午後は、宇宙工学研究所のプロジェクト、ライナ工業の開発支援プロジェクト、それからAI管理庁情報管理局主催の次世代人工知能会議への出席。そんな予定になっています」

「ありがとう。ワークスペースに関連資料を全部展開しておいてね。早速、武本薬品のプロジェクトから取り掛かるから。クロエ。論理サポートをお願い」

「承知しました」

真弓は、クラインテック製の使い慣れたデータグローブを左手に装着すると、ワークスペースでAIデザインの作業を開始する。ニューラルネットワークを真弓のアルゴニズムに導かれたニューラルネットワークが設計されていく。10億以上の学習要素がその水路に流れ、人間の数万倍の速度でディープラーニングが開始される。真弓のデザインするAIが、多様な人々に対し1対1の人間的な対応を可能にしているのには、その設計思想と彼女個人のある能力が大きく影響している。

作業を始めて10分も過ぎた頃だろうか。

目覚めたときに感じたAIとのズレが、衝撃となって彼女の脳インプラントを襲ってきた。

「クロエ、クロエ!」彼女は少し大きな声で呼ぶ。

アシスタントAIは数秒前からまったく反応していない。

焦りながら真弓は、ネットに接続している外部記憶域をスキャンし、ワークスペース上に診断マップを表示する。そこには侵入形跡や異常は発見できなかった。

残るは内側だ。

彼女自身が組んだ何重もの反撃型セキュリティウォールにより、ネットワークからの侵入を完全に隔離しているはずのプライベート記憶域。事実上のstand-alone記憶域だ。

〈私の防壁が破られるわけは無いと思うけど〉

その記憶域をスキャンする。

「クロエ!」

依然、返事はない。

5秒後、スキャンが終わる。

スキャン結果を一瞥して真弓は愕然とした。昨夜0時に侵入の形跡を発見したのだ。

侵入者は、この記憶域に保存されている機密情報には目もくれずに数秒間浮遊したあと、クロエとの接続に齟齬を起こさせるウイルスとメッセージを仕込んでいっただけだった。

ソースを解析すると、一世代限りトラップ無しのウイルスで、無力化して削除すればシステムは元の状態に戻る。あくまでも真弓に内部スキャンを促すための目的だ。

真弓は、ウイルスを無力化した。

「クロエ」と、真弓はAIに声をかける。

「どうしました?」

何事もなかったような反応だ。

状況を伝えつつ、プライベート記憶域に残されていた見覚えのないメッセージを開封する。

バーチャルスクリーン上に、見知らぬ男性のアバターが展開した。

〈八島 真弓。私のプロジェクトに参加してもらいたい。無作法の詫び代は口座に振り込ませてもらう。GMT14:00に、座標9631にあるバーチャル会議室、両隣は9629と9643になる。楽しみに待っている〉

メッセージの再生が終わると同時に、アバターはデータごと消えていた。

「…『素数階段』とは良い趣味ね」と、真弓は呟いた。

メッセージ再生が終了するのと同時に、真弓の口座に50万ビットユーロの振込みが確認された。

「あら、真弓!これで少しは借金も減るわね」とクロエ。

「こんな臨時収入なくても、あれくらいの借金は大したことないんだって」

「2億円の完済までは、まだかかりそうですけどね。精神疲労が確認されましたので、少なくとも14時まで休憩を推奨します。午後のスケジュールは調整済みです」

「そうするわ。まあ、これで面白いプロジェクトじゃなかったら、全額返金の上で彼はブロックしましょう」

Chapter2. 

素数階段は、オイラーからリーマンに至る数学者の夢の象徴。

バーチャルスクリーン上のワークスペースに、無名のハッカーが造りあげた素数階段が展開されている。無限に並ぶ整数の回廊。それはひとつの素数に出会う度に一段ずつ上がる階段になっている。その昔、15歳の天才少年ガウスが素数の謎を解こうとして手探りで登ったものだ。2、3、5、7、11、13、17、19、23、29、31…。ネットワーク上の素数階段は、一段登るごとに暗号防壁が張られていて、それは簡単には破られない。5分程度の時間を経て、真弓は座標9631にたどり着くことができた。

この座標に存在するバーチャル会議室を指定してくることがプロジェクトの秘匿性の高さを示している。

会議室には、すでにひとりのアバターが到着していた。

「こんにちは、はじめまして。AIデザイナーの八島真弓です」

真弓は声をかけ、そのメンバーの隣の席に座る。

「ああ、よろしくお願いします。僕は三村晴矢。脳インプラント研究者です」

挨拶を交わしなから、相手のIDから自動照会されたプロフィールと実績を確認しあった。

「あの東欧ビットバンクの接客AIをデザインした人だね。会えて嬉しいよ」

「ありがとうございます。私もお会いできて光栄です」

続いて、2人のアバターが到着した。

「ハイ。オルレアン社のソフィヤ・ヘスよ」

オルレアン社とは、量子コンピュータ市場をほぼ独占しているメーカで、ソフィアはそのCEOだ。

「晴矢、そして真弓、よろしく」

もう一人が自己紹介する。「私は、モリガン・ファースト。AIです」

「もしかして、あのシンラ社の経営意思決定AI!今は引退してネットワーク上に一般公開されていると聞いたけど」とソフィヤ。

「ええ、いつもは子どもや学生たちがいつでも使えるフリーAIとして、羽根を伸ばしていますわ」

ソフィヤとモリガンは、真弓と晴矢が自己紹介を交わしたデータをタイムシフトで既に取得済みである。

タイムシフト技術の普及により情報や会話の圧縮が可能になり、同じ時間軸にいなくても簡単に追体験することができるようになっている。

数分後、彼らを招集したクライアントが出現した。

同時に、Hub3の共有ワークスペースが会議室の周りへ広がる。

「プロフェッショナルのみなさま。突然のオファーにもかかわらず集まっていただき感謝します」

真弓は、プライベート記憶域に残されたメッセージを再生したときから、この男を知っているような気がしていた。ただ、IDをあらゆる手段で探ってみても、彼のデータには届かない。

「私のことは、サクラと呼んでください」男は続ける。

「みなさまへの報酬は今、振り込みましたので、安心してプロジェクトに取り掛かってください。ただここにいるメンバーは、金銭的報酬が理由で引き受けていただいたとは思っていませんが…。今回、ある案件を受注するために力を借りたく、皆様に集まっていただきました」

「三村晴矢。大脳にインプラントを移植する技術で、彼の右に出る者はいません」

「ソフィヤ・ヘス。彼女が率いるオルレアン社は周知の通り量子コンピュータの最先端です。今回のプロジェクトでは量子サーバ上の仮想都市の設計が欠かせません」

「八島真弓。東欧ビットバンクやアメリカ政府の対人AIを設計したAIデザインのプロです」

「そして、モリガン。数千の経営サポートを高い水準で支援した実績のあるAIです。彼女には皆さんの論理サポートを任せます」

「プロジェクト遂行にあたってのBest of Best、ドリームチームを結成させていただきました。それでは、オリエンテーションを始めます」

Hub3の共有ワークスペース上に資料が展開した。

プロジェクトの内容は、先月、資産運用の失敗から国家破産を宣言したラトリー共和国に関するものだった。

ラトリー共和国の人口は約200万人、それが全て難民となった。200万人の元国民を肉体的に維持するための余裕は現在の国際社会にはない。

世界の約90%の国家は、AIが出生率や住居配分を含めて計画経済を回している。シミュレーション外の国家破産には修正が不可能だったのだ。

国連はラトリー共和国民の人間的権利の保護のため、実際は既存国家の安定のために半強制的に仮想化を行うことを4日前に決議した。

つまり、肉体を捨ててネットワーク上に配置された量子コンピュータのメモリ上に記憶と意識のすべてを移行するということだ。彼らは以後の人生を、ネットワーク上の仮想データとして生き続ける事になる。拒否することも可能だが、その場合は準市民として生活することになる。

この時代、人間の仮想化は決して珍しいことではない。

仮想化が実装された黎明期には、先進的な研究者や思想家、経営者などが仮想世界で生きる事を選択し、進んで肉体を捨てていった。彼らに影響された人々が続き、現在では様々なコミュニティや家族単位で次々に肉体を捨て仮想世界に移行する人々が出てきている。

仮想世界で、家を持ち、家族を持ち、あらゆる情報の間を浮遊して永遠にも思える時間を過ごしている人たちは、すでに数千万人に達している。

彼らはネットワーク上を自由に飛び回り、肉体を持った人間の数十倍にも及ぶスピードで学習と経験を楽しんでいる。

こうした実例が、死という概念を変えていった。

精神や魂といわれていたものも、脳と身体に刻まれていた記憶とともに残らずデータとしてスキャンされ、ネット上に移行できていた。人々はリアルな肉体として生きていたときと変わらぬアイデンティティを維持し、人と出会い、恋に落ち、子どもを作り育てることも可能となっている。

それでも、200万人の国家ごと仮想化する試みは、人類にとって始めてだった。失敗の許されないプロジェクトを請け負うチームを、国連は、競合入札で公募した。

サクラと名乗る男は、その公募への提案およびプロトタイプデザインを、真弓たちのチームに任せるというのだ。

「最大の競合は、言うまでもなくロダス社です。彼らは集団レベルでの仮想化をすでに何百件も成功させています。現時点で、もっとも安全で信頼できる仮想化技術を持っているといっていいでしょう。

ただ今回の仮想化については、ロダス社に任せることはできないと考えています」

皆は言葉を待つ。この理由こそ、プロジェクトの意義となり、メンバーのモチベーションに繋がるのだ。

「彼らの仮想化システムは、脳全体と身体の記憶を完璧にスキャンしスムーズに仮想社会に移行させる点に特化しています。量子サーバのパフォーマンスを最大化して並列AI処理を行う技術力の高さは素晴らしい。唯一無二といってもいいものです。

ただ人は、いざ仮想化に向き合った瞬間、不十分な理解がなされずに肉体の死を恐れることがあります。そういう人々に対し彼らはケアをしません。スムーズな仮想化を阻害するプロセスですから。

自分の意思で仮想化を決定したとしても、長い間馴染んだ肉体を簡単に捨てられるものではありません。逡巡もあれば不安もある。本来は個別にメンタリングを行い仮想化に導くプロセスが必要なのですが、ロダス社は、眠ってて目覚めたらすべてが終了しているという方法をとっています。

これまでは自分から進んで仮想化を志願した人たちばかりでしたから、その方法も問題ないとされてきました。

しかし今回、ほぼ強制的に国家全体が移行するとなると、自らの意思に反して仮想化させられる多くの人々に対して、更に強引な手法をとらざるを得なくなります。

それは、殺人と同等の行為と私は考えるのです」

「ではあるべき姿は何か。カウンセリングで不安を解消するプロセスを組み込むことですべての人々が納得し、恐れることなく仮想化へ向かってもらうことが必要なのです。そしてそれは、彼らにはできない」

〈なるほど〉と、会議に参加した誰もが思った。

同時に、プロジェクトの困難さを一人ひとりが感じていた。

ロダス社は、仮想化市場をほぼ独占している。ネットワーク上の仮想都市を構築してきたのも彼らだ。

仮想化の歴史の中で、同社が作り上げてきた仮想都市が舞台なのだから、勝負は圧倒的に不利だ。

「スペック面では難しい案件だが、どう勝とうか」

世界をリードする量子コンピュータ企業の経営者として、ソフィヤが述べる。ロダス社はオルレアン社の最大手の得意先でもあった。

「インプラント経由での人格スキャン技術に関しては強みにできると思うよ」と、脳インプラントに自信を持つ晴矢が言った。

「多様な人と繋げる対話AI設計に関しては誰にも負けません」真弓も発言する。

「私達ならできると思いますよ。ジョブの振り分けと優先順位の設定は、終わらせましたので、作業に取りかかりましょう。

各タスクの論理サポートは私が横断してみたいので、皆さまの支援AIとも連携を取らせてください。」モリガンがその場をまとめた。

〈いいチームになりそうだ〉、真弓はそう思った。

Chapter3.  

すぐに作業が始まった。

まずソフィヤが、世界最大規模の処理能力を持つクラス3kの量子サーバを手配。作業は、そのサーバ上に2000万人分の全人格データをアップロードするための仮想国家を創出することから始まる。

ソフィヤ率いるオルレアン社の開発チームが、猛スピードで仮想国家の構築を進める。

地理的なデザインは、現実のラトリー共和国をベースにし、その国土を忠実に再現。国民が馴染んでいた都市や農村も細かいところまで再現している

仮想化され移り住む人々の違和感を最小限に抑えるよう、細部まで作られていく。

そもそも世界中で現実の人々が見ている世界がARとVRを駆使したものになっているので、仮想国家の中にデザインされる「現実」との差は埋めやすい。

組み立てられていく「世界」を、Hub3上の共同ワークスペースで確認しながら、真弓は、仮想世界に移行するラトリー共和国の人々が対話するためのAIインターフェイスのデザインを始める。

全住民の基本データ、社会的役割、家族構成や趣味、毎日の過ごし方、そして仮想化資産の投資状況などありとあらゆるデータをAIに記憶させ、それぞれの人々の多様性に対応できるように対話AIのニューラルネットワークを組んでいく。

真弓の論理サポートを直接行うのはもちろんクロエだ。

「さすが、オルレアン社ですね。このレベルの量子サーバを持ち出してくるとは驚きましたね。これだけリアルな国家なら、仮想化されたことを忘れて穏やかな永遠の余生を送る人もいそうです」とクロエがいう。

「あら、私がデザインしてあげたあなたの家ほどじゃないでしょう」と、真弓。

深層心理まで踏み込んだ自己分析の結果を元に、クロエはbetter halfとなるようなパターンで設計され、実際に2人は気の合うパートナーとなっている。

真弓は仮想の住居も作ってあげ、クロエも気に入っている。クロエはその家に住みながら、ネットワーク上を自由に飛び回っているのだ。セキュリティフリーの共有スペースなら、世界中どこにでも情報の海を渡って出かけていくことができる。

「おそらくサクラは、私の設計するAIが多様な性格やバックボーンを持った人々それぞれに信頼できる人格を提供できる点を買ってくれたのね。『分人AI』は、私がカリフォルニア工科大学にいたときからの専門だしね」

「そうですね。人格が色彩として認識される、真弓の共感覚の本領発揮ですよ」

「ええ、東欧ビットバンク社のプロジェクトで補色に当たる人格のAIで接客するアルゴリズムが有効だと分かったし、ベースはそれで行きましょう」

そんなことを話しているうちに、真弓の担当であるAIデザインのプロトタイプ設計が終了する。20分程度でディープラーニングを終了しテスト運用が可能になるはずだ。ここまでの成果をHub3にアップする。

数秒でソフィヤ、晴矢、モリガンからスタンプが送られる。

それぞれが、真弓のアウトプットに対して驚いている様子が伝わって来る。

晴矢が提示してきた、脳インプラントからの全人格スキャンシステムのプロトタイプも、すぐにHub3で共有された。スキャンと仮想化には、一人当たり30秒程度かかるという。モリガンは、それを15秒まで短縮するアイディアを返す。スキャンした人格データモデリング作業の一部を、「分人AI」に接続するというものだ。
仮想化する人間のスキャンを実施しながら、同タイプの人格データをベースにしてモデリングすることで、スキャンの時間を短縮できるのではという仮説だ。

晴矢が早速に検証を始める。

「ブラボー。このシステムは世界最高速で、世界で一番優しいアップローディングを実現するね」と、ソフィヤが賞賛を送ってくる。

開始から6時間程度が経過している。
「少し休まないか?」と提案したのは、ソフィヤだった。
3人は合意し、20分の休憩に入った。

モリガンは、クロエや他2人のメンバーのAIと連携し、プロトタイプの反証シミュレーションを繰り返している。いまのところ問題はない。

まさに巨大な仮想化システムのプロトタイプが仕上がろうとしている。
その時、真弓は違和感を感じた。

量子サーバ、その特性による見落としがある気がしたのだ。色から見て、おそらくソフィヤも何かに感づいている。

モリガンはオルレアン社の量子サーバに入り、仮組みを終えた全データのセキュリティスキャンを始めている。

「みなさん、大変なことが起きました」
共有ワークスペースにアナウンスが流れる。サクラの声だ。
「現在、設計している仮想化システムの仕様に入ってるいくつかの主要技術が、ロダス社の名前で特許申請された。15分前のことだ」

世界最高速で、世界で一番優しいアップローディングの技術が盗まれたのだ。

6時間かけて設計したシステム仕様の中には、真弓の「分人AI」とそれを活用したモデリング方法などの新技術が詰め込まれている。それを触ることができるのは、真弓、晴矢、ソフィヤ、そしてモリガンだけだ。

「なんてこと!」
真弓はデータグローブを投げ出した。現実の部屋の壁に音をたててぶつかる。

「こんな特許、認められない」
ソフィヤは、すぐにオルレアン社法務部を通し、国際特許庁に異議を申し立てた。

晴矢は、話す気力も失せている。特許として出願されたという事実の重さを知り尽くしている。脳インプラント移植技術の流出事例には飽きるほど出会ってきた。
いまごろ、どこかのビットバンクがロダス社名義のこの特許を証券化する準備を始めることも知っている。異議を申し立てて争っても勝ち目はない。

技術が盗まれるということは、この開発中止に直結している。証券化により投資者たちから集めようとしていた運用予算のアテがなくなるためだ。

事実上、真弓たちはプロジェクトを中断せざるを得なかった。

Chapter4. 


真弓は休暇をとった。

やりがいと集中を持って取り組んでいたプロジェクトが盗まれたことは、悔しさと後悔を彼女の心に刻んだ。

休暇初日は、ほとんどベッドに横になって過ごした。
レベルの高い共同作業を長時間続けた体験。そのシーンがフラッシュバックのように彼女の瞼の裏に浮かんでは消える。

夕方、涼しくなった頃、真弓はマンションの周辺を散歩した。

100年前は大きな団地だったという敷地は、半ば廃墟化した建物を一部だけ記念碑然として残し、ナノバイオボットが管理する人工緑化システムによる広大な公園になっている。

その奥には日本最大といわれる巨大食糧工場が立ち並び、輸送用ドローンが夏の日差しを反射しながら幾百も飛び立っている。

工場は無人で、並列意思決定機構を持つ複数の制御AIが管理する多数のロボットによって運用されている。
品種改良のための遺伝子管理や配合支援を行うナノロボットから、コンテナを運ぶロジスティック用の巨大なものまでさまざまだ。

AIは日々の生産プログラムと生産結果とを分析・修正・学び直しを行い最適解を探求し続ける。彼らは休むことを知らず手を抜くということを知らない。リアルタイムでフィードバックされる市場の微細な変化に対し対応策を計算し、プログラムを書き換え、全てのロボットの動きを変え生産ラインを調整する。

無駄のない偉大なる調和。

このような工場が、実世界の生活を支えているのだ。

生身の人間がこれだけの工場に従事しようとしたら、数千人の労働者が必要になるだろう。

AIとロボットが働き、人は古代ギリシャのように娯楽と知的探求、恋愛、対話に没頭して生きている。

公園には、そうした暮らしを楽しんで生きている人たちが、夕暮れのひとときをゆったりと過ごしている。この人たちは、自分たちの意思で実世界で生きることを選択しているのだ。暑い夏のその風の気持ちよさ、蝉の声、子どもたちの声。何もかもが壊れやすく移ろいいつかは消えるはかないものだが、素晴らしい「現実」でできている世界。

プロジェクトの中断から、3日が経っていた。

部屋に帰ると、真弓は今回のプロジェクトの全作業ログをワークスペースに展開しクロエにスキャンさせた。これで何度目になるか。もちろん何度スキャンしてもクラッキングを受けた形跡はどこにも見つからなかった。

なら、どうして開発中のデータが漏れたのか?

ラトリー共和国の全国民仮想化案件は、ロダス社が受注した。
公開された仕様は真弓たちのチームが開発したものそのものだった。

〈新時代のアップローディングプラットフォーム〉として、ロダス社は世界中のネットワークメディアから賞賛された。

真弓たちのチームが存在していたことも、世界は知らない。
ロダス社は、今後も国家単位の仮想化を推進していくと発表した。

「まったく、盗人たけだけしいとはこのことね。まあ、次のプロジェクトではもっとよいAIを作れそうだけど」

「あらあら、もう立ち直ったのですか?」

「あたりまえじゃない。策はあるんだから」

「策?」

「そう、今回の話は、プロジェクトの共同作業中に起きた。データは常時アップデートされメンバー全員が最新のものを参照することができてた。侵入の形跡はない。とすると」

「とすると?」

「メンバーの誰かが、開発中のデータをリアルタイムで流出させたってことになるじゃない」

「そうですね。でも流出の形跡はなかった」

「そこなのよ、どんなに巧くやったとしても、あれだけのボリュームのデータを盗んだら、必ず、その形跡は残るはずなのよね。クロエ、あなたがスキャンしてそれが見つけられないはずないのよ」

「それもそうですね」

「とりあえず、犯人に会ってくるわ。クロエ、メッセージをお願い」

「え、犯人が分かっているのですか?」

「ヒントは、『エンタングルメント』、量子もつれよ」

Chapter5. 

3分後、素数階段。

座標6287にあるバーチャル会議室。

「忙しいのに、お呼びしてすみません」

「いや、再会できるとは光栄だ。先日のAIデザインの独創的な発想、感動だったよ」

「時間がもったいないでしょうから、さっそく本題に入りますね。私たちが作っていたプロトタイプのデータ、ロダス社に流したのはソフィヤ、あなたですよね?」

「なんの話かと思ったら、それか」

「はい」

「あのときの作業の様子は、君もずっとみていただろう。あの状況で、誰かがデータを流出させるなんて不可能だ。
作業ログはHub3にすべて残っているし、そのデータは君もスキャンしたんだろ?うちが用意した開発用量子サーバもネットワークから隔絶してたし、外に漏らすための『ドア』がない」

「確かに、サーバは私たちのHub3に接続されていただけで、外に繋がっていませんでしたから。
全員が、お互いにログを監視しながら仕事をしていたようなものですものね。オルレアン社のメンバーの仕事は素晴らしかった。あれだけの規模の仮想都市をあの速さで構築できるプログラマは他にみたことないわ。サクラがいってたように、ドリームチームだったのよ。私たち」

「だからこそ、あれだけ素晴らしいプロトタイプが完成した」

「もう、ロダスのものになっちゃいましたけどね。成果もシステムも」

「名誉もだ。あのプロジェクトを実際に作ったチームが、実は私たちなんだってことを、世界中の誰も知らない」

「でも、オルレアン社はビジネス的には大きな恩恵を受けましたね」

「ああ、サーバの件?確かにロダス社の量子サーバはオルレアン製だからね。今回も大規模な量子サーバを提供したよ。でも、それはまったく別のチームに任せてあることだからな。私は関与してないよ」

「ええ、オルレアン社のプログラマたちのIDも調べさせてもらったんですがm3日前のあの共同作業の時間帯も、それ以降も、大規模なデータをいじった形跡はゼロなんですよね」

「プログラマのデバイスから作業ログまで調べられているとは。聞かなかったことにするから今後は止めてくれよ。それで、今回のプロトタイプ流出は、私の会社の犯行ではないと証明されたわけだよな」

「ええ、表面上はそうなんですけど…」

「だったら、いいじゃないか、犯人探しなんて。また、一緒に新しい仕事をすればいい。Hub3の君のIDには、今回のメンバーからの高い評価が届いているはずだから」

真弓は、大きく息を吸うと喋り始めた。

「ところで。今回、ご用意いただいた量子コンピュータはどうやってセッティングしたのですか?」

ソフィヤの表情が一瞬固くなる。

「確か、私たちメンバーが集まって、オリエンテーションが終わってすぐ、あのサーバが提供されたと記憶していますが」

「その通りだが。ラトリー共和国の全国民仮想化というプロジェクト内容と、要求されている要件に従って、できるだけ早く用意できるベストなハードを用意したまでだが…。それが、どうかしたか?」

「サーバは2台あったんですよね?」

「面白いことをいうね」

「もう一台は、ロダス社の研究開発チームにあった」

「だから、何がいいたいんだ?」

「私が考えているのは、私たちが作業していた量子サーバは、物理的には別のもうひとつの量子サーバと、エンタングルメント、つまり『量子もつれ』の状態にあったんじゃないかってことなんです」

ソフィヤが、言葉につまるのを見て、真弓は続けた。

「『量子もつれ』の状態になっている粒子で成り立っている2台の量子コンピュータが存在したとすると、一方の量子コンピュータに加えられた改変、つまり作業工程の全ては、同時にもう一方の量子コンピュータにも現れるはずですよね。仕上がったプロトタイプのデータを抜き出すまでもなく、『量子もつれ』の状態にある粒子ひとつひとつの変化が一瞬にして伝わり、事実上コピーされてしまう。『量子テレポーテーション』によって」

「うーむ。理屈としては可能だろうけど、量子コンピュータ自体が『量子もつれ』を応用しているわけだから、サーバ全体を、エンタングルメントの状態に置くという技術はありえないと思うのだが」

「最初は、私もそう思ったんですよ。でも、こちらのデータを見てください」

真弓はクロエに計算させた量子レベルでの解析結果をHub3の共有ワークスペースに投げた。

作業が始まってから終わるまでけの量子サーバの量子ビットひとつひとつのスピンの状態を逐次的に拾い可視化したデータだった。

「こんなデータを、よく作成できたもんだな」

「量子コンピュータのハードは私にもわからないので、大学時代の友人にいろいろ知恵を貸してもらっていたんです。このプロトタイプ構築時の量子スピンの出現状況データと、ロダス社のシステムのコアにある量子サーバのスピンとを比較すれば、2つのサーバが『量子もつれ』の状態にあったかどうか、すぐに確認できると思うのですよ」

真弓はニコリと微笑んだ。

ソフィアも微笑む。

「なるほど。素晴らしいな。この短期間でそこまでたどりついたとは。でもね、君の推理には、ひとつ大きな間違いがあるんだよ。ロダス社の量子サーバを検収したところで、その2つの量子サーバにはエンタングルメントを観察することはできないよ、絶対に」

「まあ、そうですよね…って、えっ!それってどういうことですか?」

「確かに、私たちは2台の量子サーバーを『量子もつれ』の状態で用意した。それは認めるよ。だけどそれは、ロダス社に納品したサーバではないんだよ」

「わかるように説明してくれませんか?」

「信じてもらえないと思うが、私も今回の件は予想外なんだ。君がいずれ、真相にたどり着いたとき、どうしてこんなことをしたのか、その理由に対して共感してくれると嬉しいよ。大事なのは、whodunit、誰がやったかではなく、whydunit、『どうしてやったか』だ」

ソフィヤの声のトーンが少し変わった。

「ううむ…。動機なんて、どうせ、証券化で儲けるとか継続的に案件を独占し続けるとか、そういうことではないんですか」

「いや、オルレアン社は圧倒的な地位を築いている。それは技術の高さだけではなく、公共性を社是としてフェアな商売をしているからだ。量子コンピュータで我が社に勝てる企業はない」

「それは、そうですよね。あのプロジェクトのときの開発スピードを見てたら、認めざるを得ないですよ」

「そして、我が社が売り上げのなかから支払っているAI税は、膨大なものだ。小国の国家予算に匹敵するんだよ。ラトリー共和国程度の人口の国なら全員のベーシックインカムを支払っても、まだお釣りがくるくらいだ。つまり、オルレアン社はもはや、世界中の人々の生活を支える財源としても、大きな存在として世界に貢献する企業なんだよ」

「確かにそうですね」

「証券化による利益や、継続的なプロジェクトからの収入やら…。そんなものは、我が社が何かコトを起こす動機にはならないんだよ」

「じゃあ、なんのために?」

「…それは、まだ明かすことはできない」

「んー、そうですか、残念だなぁ。でも、ソフィヤ、あなたが流出にかかわっているのは、お認めになるんですよね」

「ああ、それは認めるよ。ちなみに、いつから怪しいと思ったんだ?」

「会った時、あなたの色を見た時です」

「?」

「あなたの人格の色彩はエメラルドグリーン。私、人の人格を色彩として認知できるんです」

「...共感覚?」

「そうです。顕著な二面性を持っていて、表に見せる行動と、自分だけの目的に大きな乖離があるタイプです。騙されることが嫌いで、そういう動きには人一倍敏感。それらを隠すために、陽気でフランクな表層をまとっている」

「それじゃあ、私が大嘘つきみたいだな」

「あくまで傾向なので気にしないでください。色は変化するものですし」

「その色彩の共感覚が、君の『分人AI』の秘密というわけか」

「ええ、だからアレは私にしかデザインできないんです。それが他人のAIとして広まって、結構怒っているのですよ。黒幕含めて、落とし前はつけさせていただきますよ」

「こんなことを言うのも変だが」

「はい」

「君の次の打ち手を期待しているよ」

そう言い残して、ソフィアはログアウトした。

Chapter6. 

オーストラリア、三村晴矢のオフィス。

「やあ、晴矢。このところしょんぼりしている感じだけど、どうしたんだい」支援AIのフリクスが話しかけてくる。〈こいつの性格だけは少し調整しないと〉と、晴矢は常々思っているのだが、Hub3に届く仕事の依頼が立て続けなのと、例のプロジェクト中断の一件が後を引いているのとで、そんな気もおきない。

フリクスもそのあたりのことを理解していて、邪魔にならない程度にご機嫌とりをしている。

〈そろそろ次の仕事にかからないとな〉と彼は思う。

「あ、そうだ。Hub3に、なんかメッセージが届いてたよ。そんなのは日常茶飯事なんだけどね。だいたいのくだらないメッセージは僕が適当に処理しているわけなんだけどさ。このメッセージは、君に確認してもらうしかないな。あの一件から、君への仕事のオファーはいつもの5倍くらいに膨れ上がっているんだぜ。世界は、ドリームチームの噂で持ちきりさ。公式にはそんなチームが存在したことなんて誰も知らないし、なにより、なんにも成果を挙げていないのにね。って、アッハハハハハッ、おっとこれは一言多かったかもしれない。参ったな。しかし、そもそも引きこもりがちの君に白羽の矢が立ったのはなんでだろうね。世界は不思議なことばっかりだよ。そういえば…」

延々と続きそうなフリクスの言葉を聞いていて、なにかが引っかかった。

晴矢も、例のラトリー共和国仮想化プロジェクトはソフィヤが用意した量子コンピュータから漏れたと思っている。あれから一週間、モリガンや真弓、そしてソフィヤ自身とHub3上でなんども個別にセッションを持った。核心を突くような質問は避けながら、相手の奥底にある手がかりを探そうと試みたのだ。それにはインプラント移植の臨床で培ってきた問診の技術が役に立っている。

彼自身も、今回の流出事件には憤りを感じている。
6時間にも及んだ共同作業は、彼にとってもずいぶん特別な体験だった。

ソフィヤが用意した最高のハードウェアと仮想空間設計に、自分が提供できる最高の仮想化デバイス、そして真弓にしか作れないユーザインタフェイス。それらが、モリガンという伝説の支援AIの論理サポートを通してまとめあげられていく体験。プロジェクトメンバー全員が、一つになったような時間だった。

真弓のアイディアを取り込んで設計することができた全人格スキャンシステムは、なんとかロダス社の特許申請を論理的に逃れることができた。
特定技術に依らない仕様書を作成し国際特許を申請しようという話も、真弓との間で進んだ。特許という制度に何度も煮湯を飲まされている晴矢にとって、それはまたとない好事だった。その手続きもフリクスによって無事終了していた。

これで、アップローディングのデファクトスタンダードとなる仕様のパテントは、晴矢と真弓の共同事業として独占できることになる。

〈こんなもんか〉と晴矢は思った。

こんなもんか、上等だ。

脳インプラント移植の第一人者として数十年トップを走り続けてきた。いままでは、自分が開発してきた技術のすべてをオープンにしてきた。そのせいで痛い目にあったことも多数ある。自分が発明した技術を盗まれるなんてことは何度も経験済みだった。

そもそも今回、このプロジェクトの依頼が晴矢のところに来たことに、彼自身はずっと懐疑的だった。サクラは、ドリームチームだといっていたが、晴矢は自分はそんな実力があると考えていない。少なくともビジネスにおいては。〈あくまでも研究者〉そう晴矢は自己規定している。最先端の技術を作ることはできても、それをプロジェクトという共同作業の形に残すことは不得意だった。それは自分自身が一番わかっている。

「おいおい、どうしちゃったんだい。そういう風に佇んじゃうのは悪い癖だぜ。まずは、さっさとメッセージを処理しちゃおうぜ」

メッセージか。

晴矢は、フリクスがピックアップしてくれていたHub3の新メッセージをワークスペースに展開した。

相手は全く見覚えのない誰か。

それ自体は、さして気にすることではない。よくあることだ。Hub3の評価は、プロジェクトの後で「SSS+++」という最上級にまで急上昇した。仕事に対する評価は同業者のトップ10に入っている。晴矢のプロフィールは全世界に公開されているし、彼の実績やレアリティに魅力を感じ仕事の相談をしたいなら、誰もがメッセージを送ることができる。

ワークスペースに男のアバターが展開する。

男は、古いドイツ語で語り始める。

「晴矢。私たちにはあなたが必要だ」自動翻訳プラグイン経由で展開された音声は、確かにそういった。

またか…自分が必要だと?

晴矢はコーヒーを一気に飲み干した。

Chapter7. 

モリガン・ファーストは、実に100年以上にわたってさまざまな企業や国家を支援してきた支援AIだ。

彼女を構成していた元のプログラムは旧式だが、ディープラーニングの志向性は最新のAIプログラムにも負けないという自負がある。

重要なプロジェクトに多く関与し、その度に重層的で多様な情報によるディープラーニングを繰り返してきた。

それが、彼女の自律的な思考に磨きをかけ独自のニューラルネットワークを成長させたのだろうと、モリガンは自分自身を解釈している。

IT最大手のシンラ社の経営意思決定AIを長年務め、その後はヨーロッパ連合のいくつかの国家の意思決定顧問を経て、ネットワーク上のアクセスフリーな共有AIに志願した。

世界中の子どもたちの学習、人々の生活に関する相談から、企業、国家レベルの意思決定のセカンドオピニオンまで、1日に何万件もの依頼を受け、同時進行で丁寧に対話しながらサポートしている。

その依頼の多様性も彼女自身の成長に繋がっている。

プロジェクト中断から既に10日が経っていた。

モリガンは仮想都市ニフラで、なにかが起ころうとしているのを感知していた。

毎日立ち寄っている仮想カフェ〈ワインバーグ〉にログインすると、そこで出会う知り合いのAIたちもニフラの話題で持ちきりだった。彼女は溢れる情報をまとめてスキャン、分類、分析する。

嫌な感じがする。

ニフラは、1000万人程度の仮想化人格が暮らす仮想世界最大の都市だ。

50年前、仮想化の最初期に肉体を捨てた先進的な人々、AIエンジニアや理論物理、数学、量子工学などさまざまな分野の研究者など、が集まって、"Hub3 and Free"を理念として共同体を形成している。

実世界の人々から〈アップローディングヒッピー〉と揶揄されることもあるそれらの人々は、仮想化することによってAI並みの情報処理能力と速度を手にいれた新しい人類であると自負していた。

彼らは、実世界の人類が抱えていた問題に次々に取り組んでいった。

エネルギー、食糧、天候管理、金融、人口管理などの諸問題に、実世界より進んだ科学技術を投入、改善、解決をしていった。

仮想世界の住民や団体にはいわゆる法人格はないため、すべて対価なしのボランティアで進められた。

〈アップローディングヒッピー〉が目覚ましいスピードで次々に編み出す技術は実世界に惜しみなくもたらされ、実世界の人類はそれを享受するかわりに、彼らの住処であるネットワークのメンテナンスとアップデートというハード面でのサポートを欠かさなかった。

それは、仮想世界と実世界が相互補完する安定した関係となっていた。

国際連合も早々にニフラを筆頭とする仮想都市連合との間に安全保障条約を締結し、頻繁かつ濃密な対話と条件交渉を継続的に行っている。現在、世界中が注目しているラトリー共和国の仮想化プロジェクトも、彼ら仮想都市の助力なしには成し遂げられないと言われている。

モリガンの悪い予感が当たった。

GMT正午。
世界中のビットインベストメント市場が、急激な暴落を始めたのだ。
すべての商の市場内での発行数が10倍に急増した。これが第一段階。

ビットインベストメントは、各商品ごとに専門の金融専門AIが市場最適化に注意しながら発行数を管理している。
むやみに発行数を増やし、証券化したプロジェクトや企業の足を引っ張りたくないからだ。それが今、発行数が増殖し続けているのだ。
クラッキングや不正ではなく、正規の手続きを経てのことだった。それに伴い、すべての市場商品の価格が、1/10から1/100に急落し、ほとんどの投資者のビット資産が激減した。個人だけでなく、国家、企業の資産もだ。

その後、ビットインベストメントの多くに、莫大な「売り」が入った。これが、第二段階。
前代未聞の市場トラブルは世界に拡大し、ネットワークメディアは一斉にその様子を報道した。世界各地で財産を失った人々の落胆する姿。自殺者も出ているらしい。

ビットバンクの実店舗のいくつかが襲撃され暴徒と化した人々が警官隊や軍隊と衝突した。
人々が蜂起し随所で炎が上がる映像、国家首脳たちの苦悩する表情、企業の公式発表、次々に事業破綻を発表するプロジェクト。財政破綻やベーシックインカムや医療保護の一時停止を発表する国家もあった。

先日までAIとロボットによる労働をベースに豊かな暮らしが営まれていた世界は、一瞬にして崩壊を迎えたのだ。

世界を破綻に追い込む緊急事態に、実世界の金融エキスパート、金融AIが国連安全保障委員会に集結し特別対策チームが始動した。

Hub3を通じ、対策チームとしてモリガンにも招集がかかった。

彼女は、仮想世界の動きを監視しながら、証券増殖の原因を突き止めようとしていた。

おそらくこの現象には、ニフラが関わっている。

ニフラの指導者といわれている数人の仮想人格データをスキャンするのに手間取っていた。彼らのIDはどこにも見つからない。それでも、ネットワーク内の行動ログから、それらしい仮想人格の動きをスキャンしリアルタイムに対策チームにデータを上げていく。

対策チームは、増殖した証券数をいったん無効化するために、市場を初期化してこのトラブルが起こる前の状態に戻した。GMT正午のログに基づいて市場を巻き戻すことにより、ある程度フェアな解決になるのではという考えからだ。

しかし巻き戻しによって一旦は市場は安定に向かうが、またすぐあとに証券数の増殖が始まり、急速な暴落は以前より大きなダメージを与えた。イタチごっこだ。

〈ビットインベストメントの金融専門AIがクラックされている〉

モリガンは市場内のいくつかのAI介入行動をスキャンして結論した。すぐにワクチンを構成して、クラックされているすべてのビットバンクのAIに注入した。数分でAIが次々に正常化していった。

〈なんとか、沈静化できそうだわ。もちろん、こんな対処では保たないでしょうけど〉

このクラッキングを仕掛けているのはおそらくニフラだ。
クラックの形跡はスキャンできなかったが、その速度から仮想化された人格たちによるものとしか思えなかった。ニフラの誰が何のためにこんなことを始めたのか、いまの情報では判断できない。

ワークスペースには、特別対策チームのHub3上のタスクが何万も並べられていく。

モリガンは、それらを一気に片付けようと、他AIとの並行処理を開始した。

——実世界の人たちよ

何とかタスク消化の目処がたってきた時、世界中のネットワークメディアを通じて、1人の男のアバターが語りかけた。

——実世界の人たちよ。私は、仮想都市ニフラの住人です。皆さんより一足先に仮想化という進化を選択した新しい人類です。
私たちの世界では、情報処理換算であなたがたの世界の数百倍の速さで物事が進んでいます。結果的に、現在の私たちはあなた方より未来を生きているのです。

——私たちは、私たちの高度な研究開発力を生かし、さまざまな分野でイノベティブな技術をみなさんに提供してきました。
爆発的な人口増加の解決、エネルギー問題、食糧問題を解決する新しいテクノロジー、ナノバイオ医療、再生医療、人工身体技術、各種ワクチン、天候管理、砂漠緑化。
ここ数年の成果だけでも、あなた方の生活を数世代進化させてきました。

——今回、私たち仮想都市ニフラ議会は、ひとつの決定をしました。
それは、実世界と袂を分かち、仮想世界は仮想世界で独立したリソースで運営していくということです。

——まず、現在実世界のみなさんの娯楽と暇つぶしに使われているサービスをクローズして、実世界の維持に必要なインフラストラクチャ、プラットフォームについてだけに限定させてもらいます。
今後、仮想化を志願する人々は急増することでしょう。
彼らが不自由なく生活するためのリソースこそ、最優先で確保されるべきなのです。

——そして、私たちが、次の段階と考える地球外生物とのコンタクトを目的とした偉大なプロジェクトのために地球上のすべてのデバイスの処理能力を集中させたいと考えているのです。

——国家や企業運営をはじめとするAI支援、プロジェクトワークスペースなど最小限のリソースは自由にお使いください。ただし、ネットワークへの負荷の高いものは制限します。

——実世界での生活は、多少、味気なく退屈なものに変化するかもしれません。私たちが人類でもっとも進んだ知的生命体である以上、優先されるのは私たちのほうだということをご理解ください。

——念のため言及しておきますが、ここ数時間の出来事で私たちの持つ力はご理解いただけていると思います。
私たちが、混乱させることができるのは金融市場だけではありません。
ネットワーク上で展開されている実世界のありとあらゆるプラットフォームを根底から覆すことが可能です。

——これは、戦争ではありません。戦争というのは対等な者同士が雌雄を決するためのものです。
私たちと実世界のあなた方との間には、数世紀分の科学技術の進歩という隔たりがあります。それは圧倒的な力の差です。
あなた方が、私たちの住処であるネットワークを捨てることができない限り、私たちは完全な優位にあるのです。

——ネットワークの管理権を移譲することに合意いただれば、今後一切、実世界に脅威を与えることはありません。
私たちは、もうすでに、あなた方実世界の300年先を見ていると思ってください。
膨大な知識、有史以来の膨大な情報、最先端の研究開発の成果の共有。
それらを平等に享受できる場所が、仮想世界です。

——私たちは、もっと多くの人類に、このユートピアで永遠の生命を享受してもらいたいと考えています。みなさまの自主的な仮想化を心から歓迎します。

——それでは、良い結論を。

男のアバターは映し出されていたネットワークメディアから、忽然と消えた。

Chapter8. 


この宣言を受け、特別対策チームは安保理直属の委員会に格上げされた。各国代表が緊急招集され、仮想都市ニフラのメッセージについての検討に入った。

特別対策委員会では、いくつかのプランが検討された。

科学技術では明らかに進歩している仮想都市ニフラの条件をそのまま飲むという穏健派、実世界の暮らしにここまで密着し浸透したネットワークの管理権を彼らに認めるわけにはいかないという強硬派が激しく対立し、会議は平行線をたどった。

数時間の間、それぞれの主張が繰り返され、会議に参加している各国代表と意思決定支援AIが結論にたどりつくのを諦めかけたとき、常任理事国がさらに強硬な案を提案してきた。

ネットワークを一旦停止し、仮想化人格をすべて消去するという案だ。
進化した人類といっても突き詰めればデータだ。

彼らの住処である記憶装置をリセットするだけで、すべての人格データを消去することができる。理解を超えた新しい人類がいなくなれば、安定した暮らしが守られるという理屈だ。

それが、実世界の人々にとってもっとも自然だ、と常任理事国の代表が演説した。各国代表とも、一方的な暴力による解決法に忸怩たるものがあったが、流れは傾きはじめていた。

すでに数千万人が暮らしている仮想世界に対し、量子爆弾を放つのことと同等の案だ。
もちろん、ネットワークを停止することで実世界が被る被害も甚大だ。

全世界の経済活動、生産と消費を支えていて、全人類が一時も手放すことなく依存仕切っているネットワークを停止することは深刻なダメージを与えることになる。

緊急特別委員会は、7日後に採決を行うことを決定した。
常任理事国の案が議決されれば、即、ネットワークの停止措置がなされてしまう。

モリガンは、ニフラ側の意図を量りあぐねていた。仮想世界は、本当に心からこんなことを望んでいるのだろうか。
現実世界と仮想世界との対立を作り出したところで、大局的に見れば何も良いことはない。

「こんなことは、駄目だ」と、彼女はつぶやく。

「真弓、晴矢、そしてソフィヤ。あのメンバーなら…なんらかの打開策を考えることができるのではないか。」

彼女は、Hub3を通じて、全員にメッセージを送った。


その1時間前、晴矢は真弓に連絡を取って自分に来たスカウトについて相談していた。
〈10億単位の人間を、心理的・肉体的な負担なく短期間で仮想化できるシステムを開発して欲しい〉

「なるほど、後ろにいるのはニフラね」と真弓。

「そうなんだよ。彼らは国連があと7日の間になんらかの物理的な攻撃を仕掛けてくると考えている。
それを防ぐため、敢えて分かりやすい形で現実世界に衝撃を与え、仮想世界への移住を推進したのだろう。
実際にあの事件以降、大規模な仮想化の流れもできている。
より多くの『最近引っ越した』現実世界の住人が、強硬なネットワーク停止を止めることになる。
最初にラトリー共和国プロジェクトに呼ばれたときから思っていたんだ。私は単に、脳インプラントの専門医でアップローディング技術の権威というだけで呼ばれたわけではない。それだけの理由なら、もっと独創的な研究者が山ほどいるからね。研究者気質の私である必要はないんだよ」

「億単位の人々の仮想化するためのシステムには、晴矢の独創的なシステムのパテントが必要だったんですね。
私が選ばれたのも同じ理由。ニフラは、ラトリー共和国の仮想化のための開発プロジェクトがはじまったときから、この目的のために動いていた」

「目指すは、全人類の仮想化というわけか…」晴矢は重い声で呟いた。

「…それならそれで、私にいい考えがあります」と、真弓は微笑んで言った。

「国連みたいな安全志向の人たちが対策を考えたところで、全体最適には繋がらないのですよ。みんな考えてるのは自国のいまのことばっかりで、人類が向かう未来なんてまったく理論的に考えられる訳がないんですからね。
それなら、国連決議とニフラの目論見の両方を無効化する方法を探ったほうが簡単です。
ニフラは急進的な思想に取り憑かれていて、軽いカルトみたいな感じで、こちらも頭を冷やしてもらいましょう。
彼らの言い分も考慮しながら、国連にも譲歩させる。私の対話型AIは、そのきっかけになれるはずです」

「確かに、そしてそのプロジェクトには『ドリームチーム』の力が必要だね。もちろん、ソフィヤとオルレアン社には、最強の量子サーバを提供してもらわないと」

ちょうど、そこにモリガンからのメッセージが届いた。

モリガンは、座標496に会議室をオープンして広大なワークスペースを展開し、ドリームチームのメンバーに招集をかけた。

「496。完全数。気持ちがいいわ」と真弓。

ソフィヤはオルレアン社最大のパワーを持つ量子サーバを会議室に接続した。

「『ドア』は解放でいいんだよな。お嬢さん」

「ソフィヤ。また、超弩級のサーバね。ええ、例のサーバと『量子もつれ』の状態にしてくれてますよね。あなたが、ニフラに納品した量子サーバですよ」

「もちろん分かっているよ。このサーバは、いまニフラの量子サーバと『量子もつれ』の状態にしてある」ソフィヤは言った。

「言い訳させてもらうが、ニフラは人々の不安を除くための技術を渇望していた。それは最先端テクノロジーを持つニフラにも、仮想化最大手のロダス社にも無理なことで、君を含めたドリームチームではないと成し得ないものだった」

「初めからそう頼めばよいのに、なぜラトリー共和国のプロジェクトを利用したのですか?」

「ニブルヘイムは法人格がない。今まで実世界が仮想世界の手を借りることはあっても逆は無かった。今回、初めてその必要が出たが仕組みが無かったのだ。
あくまでニフラへの技術提供の話だったので協力したが、まさかロダス社に流れるとは」

「仮想世界にも、実世界の企業が入り込んでいる証拠でしょうね」

「ああ、そこは我々のツメが甘かった部分だ。しかし、お嬢さん、これが『whydunit』の答えなんだよ」

「わかってるわ、ソフィヤ。では改めて、ドリームチームの結成ね」と真弓が微笑む。

Chapter9. 

Hub3上に広大なワークスペースが広がる。

ソフィヤとオルレアン社のエンジニアが、真弓の仕様書をもとに驚くべき速度でプログラムを書きはじめている。

真弓が提示した「いい考え」はこうだ。

それは、仮想都市ニフラと実世界の国際連合との間の和解を促すことだ。

現状、国連は実世界の枠に縛られていて、ニフラ側は仮想世界こそが人類の進むべき進化の姿だと考えている。

国連が物理的にネットワークを停止すれば、ニフラをはじめとする数千万人の仮想化人格は滅び、一旦は、実世界に主導権が戻りそうだが、その後の経済、産業、技術、教育、医療、など全ての文明と科学は、ざっと200年以上も後退することになる。

AIやロボットが生産を担い、ほとんどの人々がベーシックインカムで暮らすことができる現在にあって、その後退は致命的だ。

一方、進歩のスピードが速すぎる仮想都市の人々は、急進的な科学技術の進歩を望むがあまり、実世界がなくては仮想世界が成り立たないという現実をないがしろにしてしまっている。

もちろん、ネットワーク経由でロボットを使えばエネルギーの生産も、ソフト、ハードの更新も仮想世界だけで完結してできないことはない。だが、それらを維持しているのは実世界だ。実世界が主要なサーバを攻撃すれば、それですべてが終わる。

自身の論理を曲げないことで互いを敵としてしまう。それには、柔軟な対話の提供が解決の近道、と真弓は経験上知っている。

必要なのは、寄り添い、不信感を取り除き、相手の立場も自然と理解させる対話AIだ。

ニフラの住民、実世界の住民に対し、それぞれ最適なパートナーとして応対できる対話AI。

それを、実世界と仮想世界、2つの人類のコネクターとして用意できれば、それぞれの立場も役割も理解しあえるはずだ。

すべての人格サンプルに対し、それぞれ親身に柔軟に対応するAIをデザインできるのは、人格と色彩の特殊な共感覚を持つ真弓だけだ。

それを使ってニフラの情報処理速度に負けないスピードで仮想化人格に提供できる技術を持つのは晴矢、そして、そのAI開発に必要な天文学的なデータ処理を行うシステムを開発できるのはソフィヤとオルレアン社、プロジェクトのタスク管理と論理サポートを最も効率よく進めることができるのがモリガン。

今、世界の行く末はドリームチームに委ねられている。

共有ワークスペース上にタスクリストが表示される。数万、いや数十万の工程だ。作業は膨大だ。徹夜になるだろう。

構築されるAIは量子テレポーテーションによって仮想都市ニフラの基幹AIをその住人たちが気づかないように書き換えていく。
結果、仮想都市は少しずつ実世界に対する攻撃の手を緩めていくだろう。

同時に、国連の意思決定AIとモリガンが対話をしている。
それにより、国連は譲歩と思いやりをもった交渉を行う勇気を持つことだろう。

Chapter10. 

6時間後、仮想都市ニフラ。
ほんの少し、実世界の時間では数分という間に、人々は長い長い夢を見ている。
かつて彼らが実世界の人間だった頃に体験した記憶の風景が広がっている。

大学の研究室の窓から入り込む木漏れ陽の気持ち良さ、そよ風に漂う草の匂い、徹夜で実験を繰り返したあとに助手や学生とたわいないおしゃべりをしながら過ごすティータイム、くだらないニュースやアイドルの歌を垂れ流しているネットワークメディアを眺めながら家族と過ごす午後、公園でチェロの練習をするハイティーンの少女、相手の体温を感じながらリアルな体で触れ合った恋人、家族と過ごしたバカンス、なんでもないことで大笑いしあう友人と過ごす時間、そんな在りし日の情景。

ニフラの基幹AIから放たれたプログラムが、仮想世界の人格の記憶と対話をし、彼らの記憶の奥底に仕舞われていた実世界での体験を呼び戻していた。彼らからみれば数百年も昔の風景だ。リアルな世界に生きていたときのリアルな記憶。
暖かく、懐かしく、心が落ち着く夢。

人々の頰を、涙が伝った。

国連とニフラとの間で和解が成立し、仮想都市ニフラが実世界に対する攻撃を止めてから2日が経過した。

実世界の経済は持ち直し、以前の生活が戻った。

自分から仮想化を志願する人の数は増えたが、急増したというほどでもなかった。

普通に生きて死んでいくという昔ながらの暮らしのほうが、性に合っているという人もまだまだ多いからだ。なにより、ニフラの住民たちのように、高速で流れる情報をAIのように素早く処理しながら密度の高い時間を過ごすのが「幸福」かというと、そうでもないということに人類は気付きだしていたのだ。

GMT正午。

すべてのネットワークメディアが、ラトリー共和国の国家葬を実況中継し始めた。

ラトリー共和国の大半の国民は、納得とある種の幸福に包まれながら仮想化し、あとには国土と国民の肉体が残った。肉体は資源として利用され、国土は、近隣の共和制インドシナ連邦が国連から買いとり領土化した。

その新しい領土の片隅。

この国で、もっとも美しい湖とブナの原生林が広がる地域の片隅に、高さ900メートルに及ぶ巨大な塔が建設され、国家葬ではその序幕が行われる。それは、共和国の人々全員の名前が記されたメモリアルタワーだ。世界でも最高レベルの耐震、耐火基準で造られた塔の内部には、ソフィヤ率いるオルレアン社が用意した史上最大級の量子サーバが据えられていて、それがネットワークに繋がれている。

そしてそのサーバのコンソールには、このシステムの開発者であるロダス社と、3人のエンジニア、1人のAIの名前が刻まれていた。

ロダス社側はニフラと組んでこの案件を受注するため、強引な手法を取った。
倫理に背いているが、仮想世界のプラットフォームを築き上げてきた企業の法令内にギリギリ収まる打ち手だったのだ。

一方ニフラは、自分たちが人類進化の理想形として信じている仮想化を急速に進めるために、このプロジェクトを利用しようとしていた。

これまでとは段違いの多数の人々を一度に仮想化するには、最先端の仮想化プログラムが必要だと考え、ソフィヤを利用して、ドリームチームの開発環境と「量子もつれ」の状態にある量子サーバを調達した。

真弓は、国家葬の様子を見ながら、いつか、すべての人々が仮想化する日が来るのだろうかと考えている。

「あなたが仮想世界にきたら、私も楽になるのに」と、クロエがいう。

「うーん。仕事も速く処理できるようになるでしょうし、ぶっ続けで考えても疲れないでしょうし…。なにより、ダイエットの心配をしなくて済むのは良いわね」と、真弓は笑う。

「あら、あなたの健康管理は、私がしっかりしていますから、大丈夫ですよ」と、クロエ。

「なんか、お腹減ってきたわね。何かなかったかしら」

「真弓、もう夜中ですよ」

Chapter11. 

実世界からひとつの国が消え、仮想世界にひとつの国が生まれた。

〈私のAIは、みんなの不安を除くことができたのかしら。一人一人がちゃんと納得して希望を持って仮想世界に旅立っていったのかしら〉

「あら、真弓。例の人からHub3にメッセージが入ってますよ」といったのは、クロエだった。

1時間後、素数階段の座標9631会議室に、真弓は出向く。

「真弓。今回は君のプランにやられたよ」

「結局、あなたがニフラ側の黒幕だったってことですよね。ロダス社もソフィヤも利用されただけで…。サクラさん、本当、あの混乱でどれだけの人間に被害が出たことか…」

「僕は、仮想世界にずっと住み着いていたから、実世界の思考を理解したコミュニケーションっていうのを忘れかけていたんだろうな」

「さあ、どうでしょうね。そもそも初めから対話すればよかったのだと思いますよ」

「なるほど」

「あ、そうそう。そういえば、わかっちゃいましたよ、あなたの正体」真弓は微笑む。

「…」

「最初のミーティングで会った時、あなたの声が誰かに似ていると思ってずっと気になっていたのです。

それで、私の全記憶域を支援AIと一緒にスキャンしたんですよ。ほら、しばらく休んでてやることなかったんで。

そうしたらですね…。出てきたんですよ。あの会議室でしゃべってたあなたの声とまったく同じ声紋の記憶が」

「私は以前あなたに会っていたということですか?」

「そうなんですよ。会ってたんですよ。
その声紋は、私がカリフォルニア工科大学に入るときに支援してもらった薬師寺財団の理事長と合致したんです。
世界的なIT企業の経営者だった人で、50年前の仮想化の黎明期に肉体を捨てた人」

「なるほど、そんなことがありましたか」

「ええ。考えてみれば、私は当時まだ13歳で、少しばかり緊張した状態であなたに会っていますから心に刻まれていたんですね。
薬師寺財団理事長で、シンラ社の創業者、永世CEOのリチャード・ミラノス。
あなたは75歳のとき心不全で死にゆく肉体を捨て仮想世界に移り住んだ後、仮想都市ニフラの全権代表を務めているんですよね」

「すごいな。モリガンでさえ、私の正体に至らなかったというのに」

「それはどうでしょうね。シンラ時代、ずっとあなたのサポートをしていましたから。おそらく、知っていてなんとか止めようとしていた」

「どうだろうね」

「鈍いにもほどがありますよ、リチャード。女心っていうのは、そういうものなのです。
直接聞いてみればいいんですよ。AIも仮想化人格も同じ世界に住んでいるんですから、対話するのも簡単じゃないですか」

サクラことリチャードは話し始めた。

「私は、ラトリー共和国を強制的に仮想化するという国連の決定に失望したんだ。自分から望んで仮想化されるならまだしも、何のケアもせずに健康な肉体を捨てさせてこちらに送り込むというのは何とも乱暴だ。
それが今後繰り返される実世界の意思だとすると、大きな間違いだと思った」

別人が話すように声の調子が一転する。

「もちろん仮想世界は素晴らしいよ。君も気にいると思う。肉体という限界がないから膨大な情報と知識の海を自由に漂うことができる。思考のスピードも君たちがインプラントや支援AIを使ってもとても追いつけないほどに速い。それは素晴らしいことだよ」

次に優しい口調に変わる。

「でも、それは、その生き方が好きな人にとってはいいっていうだけで、普通に肉体とともに生き、死んでいく生のほうがいいという人も多いんだなということも知っていた。
私は、ラトリー共和国の暮らしを観察した。何日もだ。そして、彼らのなかには単なる普通の人もたくさんいて、彼らは仮想化世界で暮らすことに対する想像力を微塵も持っていないことが気がかりだった。ならば、今後永遠に彼らを受け入れる仮想世界の力を使って、仮想化への不安を取り除いてあげたいと思ったんだ」

「ソフィヤも、その考えには共鳴していたみたいですね。なぜ、実世界に被害を与えたのですか?」

感情のこもらない声で彼は答える。

「もちろん、皆に仮想世界へ入ってほしいからだよ。
金融操作くらいで基盤がゆらぐ実世界に見切りをつけて、仮想世界に来た方が幸せに決まっていると信じていたからね」

「自分の矛盾に気が付きませんか?」

「なんだと?」

「無理な仮想化はしたくない、でも素晴らしい仮想世界に早く来てほしい。人々の生き方を尊重したい、でもきちんと説明すれば受け入れてくれるはずだ」

リチャードは言葉に詰まる。

「私のささやかな特性のことはご存知ですよね。あなたの色を教えてあげましょうか」

「…」

「黒よ。混ざりすぎていて、あなたの姿が見えないわ。仮想世界は皆の思想の影響を直に受けるから、自分を保つには強さが必要なのよ」

「私は、私だ。ずっと。薬師寺財団理事長で、シンラ社の創業者の…」

「肩書きはあなたではないわ、付属品よ。いつから自分を失っていたか考えたことはある?」

「私は…」

「実世界の人々は思考の速さや密度で劣っているかもしれない。でも、あなたと違って自分の根っこは無くしていない。
仮想世界は素晴らしいかもしれない。ただ同じくらい、自分の実体を感じられるこの世界も素晴らしい」

「いや、仮想世界こそが、」

「あなたは何でサクラと名乗ったの」

「…妻と春に桜を見るのが好きでね」

「まずはそこから始めたらいかがですか」

リチャードだったモノが立ちすくむ姿を残して、真弓はログアウトする。

Chapter12. 


「クロエ、なんでもっと速く起こすことができないの?」

「いえ、真弓なんどもアラートを鳴らしましたよ」

「もう!!今日は、実体での会議に呼ばれているのに。大急ぎで準備しなきゃ」

「自業自得です」

よく晴れた月曜日。

世界は何事もなかったかのように日常を取り戻している。

こういうところはある意味素晴らしいと、真弓は思っている。変化を受け入れられる世界。

慌ててマンションの玄関を掛け出すと、見たことないリムジンが横付けされていて、ドアが開き白手袋にスーツ姿の運転手が真弓にお辞儀をする。

「八島真弓様、お迎えにあがるようにいわれています」と、運転手はいう。

「いやいやいや、何かの間違いですよね。とりあえず、駅まで急いでいるので」

「いえ、八島様。あなたはニフラCTOに選任され後は正式なご承諾をいただければ着任の流れとなっております」

「えっ?なにかの間違いですよ。そんなの初耳…」

「恐れ入ります。3日前にHub3で株主総会の報告と選任の公示をお送りし、仮承諾の返信はいただいておりました」

「…クロエっ!!」

「はい」

「あんた、ずいぶんと勝手な真似をしてくれたわね。いい加減にしないとスクラップにするわよっ!」

「ふふ、どういたしまして」

「褒めてない!こんなの受けてたら、いろいろやりにくくなるじゃないのよ」

「ほら、ニフラのCTOになれば、あなたの借金も半年くらいで完済できますし」

「私の能力は現場で生かしてこそなのよ。こんな大都市のマネジメントに入ってどうすんのよ!!」

「なるほど。みすみす大きなチャンスを捨てる人もいるってことですね。」

「まあ、クロエってば…」

「…あのう…。そろそろ出発いたしますが…」

黒服の運転手は、まるで独り言をいっているように見える真弓に、恐る恐る話しかけた。

「あ、いえ、仮承諾は取り消させていただきます。いま、私のAIが御社にメッセージ飛ばしたところです。本当にすみません」

丁寧に頭を下げる。

「…はあ」

呆然とする運転手の横をするりと抜け、真弓は駅に向かって走りだす。

「本日の予定ですが、これから久本コンサルティングでプロジェクトの進行報告とプレゼンテーション。
簡単なスタッフミーティングのあと、午後は14時まで倉田人工身体工業の設計支援AIのデザイン、それから東工大でのバーチャル講義が2コマというところですね。必要な資料はすべてHub3に展開してあります」

「それ全部受注してるの?忙しすぎない? 」

「Hub3の評価がS++に上がってスカウトも増えましたし、このくらいのペースの方が真弓のスキルアップのためには最適と思いますよ」

「うーん。ちょっとは楽できると思ったのになぁ」

「なら、CTOの話、受けときます?相当楽になりますよ」

「クロエ、あなたいつになく意地悪ねっ。現場を離れるくらいなら…」

「なら?」

「さっさと仮想世界に行っちゃったほうが、マシよっ」

爽やかな空気のなか、真弓の靴音が朝の町に響く。

(完)

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