晩秋、ぐるぐる、風


Twitterに思わず、落ち込んでいるということを書くことはよくあるけれど、
この前は、なんかこれはどうにかせんといかんわ、と思って、落ち込んでいるときにどうしてるか、ということを聞いてみた。


そうすると数人からそれぞれ何個かおすすめしてもらって、ありがたかった。
そのうちの一人の友人に次の日偶然会えて(もしくは少し気を使って訪ねて来てくれたのかもしれない)、少しだけど話せて、なんだかとても安心したというか、助かった。
ありがたいな〜と思った。



考え込む時はぐるぐる考えてしまうけれど、人に相談する時は、けっこう、現実的に何をしたらいいか、のアドバイスをもらう方が嬉しかったりする。
相談している時は話を聞いて共感してほしいだけだから、アドバイスとかがほしいわけではない、という人がいることは分かる。たぶん私もそういう時もあると思う。けれど、私はどちらかというと意見をもらえたほうがありがたいのかもしれない、と思う。

逆に、人の話を聞いている時に私はすぐに、じゃあこうしたらいいんじゃない、ああしたらいいんじゃない、と言ってしまいがちなので、それは少し気にした方がいいのかもしれないけれど。



あと、「なんでこれをしないのか」とか、「なんでこれができないのか」というような言葉を向けられた場合は全然ありがたくないと思う。



他人のことも自分のことも、「試す」というようなことはしたくないな、しないようにしないとな、ということを最近考える。


自分一人で考えて、考え込んでいる時は、何というか見ているところがすごく狭くて小さくなっているけれど、人と話して、自分の考えていることとは関係のない相手の話とかを聞いていると、目線が上がるというか、目線が前に行く感じがして、遠くを見るようになる。


そうしたら、自分の中の風通しが良くなったような感じになって、息がしやすくなりような、まあとりあえずしょうがないか、と思ったり、じゃあこうするか、というようなことを考えたりする。



自分が落ち込んだ時に、落ち込んでいても回復しようとする心の筋力?のようなものが段々と鍛えられてきたような気がして、回復しようとする自分の幾らかの図太さというか、へこたれない感じが、少し可笑しく思う。



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私は、あまり後悔をしないな、と自分では思っている。
自分の言動を思い出して、あ〜〜と恥ずかしくていたたまれない気持ちになることはよくある。
けれど、なんでああしなかったんだろう、みたいなことはあまり思わない。



自分のことを正当化しているだけかもしれないので、それについては気をつけないといけないのかもしれない。自分の言動を省みて疑うということを忘れたら、なんだか自分のことを客観的に見れていないような気がする。



ただ、私が自分のことであまり後悔をしない、というのは、自分がしたことについてはある程度信頼している、ということでもあると思っている。


何かをする時にぐるぐる考える性格だからこそ、その時その時の自分が考えて考えて決めたことなんだ、と、信じることができるのかもしれないな、と自分では思っている。その時はそうすることを選ぶしかなかったんだ、という若干の諦めも持ちながらなのかもしれない。


ただ、未来のことはいつもすぐに心配して不安になる。
過去の自分のことは信じることができているけれど、未来の自分に対する信頼が薄いのかもしれない。


まあでもしょうがない、出来ることを少しずつしていくしかない、と、だいたい同じ着地をする。



無理なものは無理だよ、と、本当にやりたくないことはしない、と、一番したいことをする、ということが最近は心の中に標語みたいに掲げられている気がする。



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気づいたら、秋が終わっていた。

椿のつぼみがふくらんでいるのを確認して帰るのが最近の日課です。