三月、八朔、甘夏


沈丁花の匂いを嗅ぐと、新学期でクラス替えをしたばかりの時期に、どうしよう友達できるかな、と気が滅入っていた記憶をすぐに思い出した。少し残酷な気持ちになる。

もうクラス替えはないし、友達がいてもいなくても減っても増えても誰も気にしない。

ただ、学生時代に、自分の気持ちを話したり腹を割って話すという時間が少なかったのか、自分が避けてきたのか、それの皺寄せで、自分の意見や考えを声にすることが全然できないままここまで来てしまった。



ふと我に帰ると泣きそうになる気分だったから、でもそういう時は散歩をしたほうがいい、と思って公園をぐるぐる歩いていた。

私はいた方がいいのか、いなくてもいいのか、いない方がいいのか、という問い自体、持ってもしょうがないのだ、と思い直す。

生きている理由を問うのは、なぜ1+1が2になるのか、と聞いているのと同じようなことなのかもしれない、と自分でもよく分からないことを考える。

0+1が1であるように、自分は生まれて今まで生きてきているから生きている、それでいいじゃん、と考えたりした。


大学のときに受けた経済学の授業で聞いた中で、国際貿易の比較優位の話をたまに思い出す。

その時、その理論を簡単にした例として聞いたのは、教授と助手がいて、論文を書く仕事とタイプライターを打つ仕事があるとする、という例。

教授は、2つの仕事において助手よりもどちらの仕事も効率よくできる。(絶対優位がある。)

その時、教授自身の論文を書く仕事とタイプライターを打つ仕事の得意度合いと、助手自身の得意度合いを比べる。(どちらの仕事のほうが同じ時間の中でたくさんできるか、みたいな)
すると、助手のほうが、タイプライターを打つ仕事の得意度合いが高い、という場合は、助手はタイプライターの仕事に比較優位がある、ということになる。
....
それで、この理論では、比較優位がある財を生産し、分業して貿易をしたほうがお互いにとって良い、という感じの結論になる。

(上手く説明できなかったので気になった場合は調べてみてください...)


この理論とはまた話が違うけど、
高校生の新学期に仲良くなった子に「得意教科なに?」みたいなことを聞かれたときに、
私としては英語が好きだったし得意だったけど、その子は帰国子女で不自由なく英語を話せる子だったから、英語が得意、と言うのが恥ずかしかった記憶がある。

自分の中の好きは、誰にも邪魔されないよ、と自信を持てるほど太い心がない、今も自分の得意なこととか特技とか聞かれてもうまく答えられないだろう、自意識が強いんだろう。


比較優位の話に戻ると、
私は仕事をする時とかに、この理論を勝手に解釈して思い出すことがある。

人にはそれぞれ何かしらできることがある、得意なことがある、というふうに考えると、
なんにもできないわ、と思うのにストップをかけることができるというか、やる気のシャッターをガシャンと閉じる前に、いや、そんなこともないよ、と思うことができる気がする。

人と比べる、ということは、良くないことみたいな、自己肯定感を上げるためには人と比べるのは良くない、みたいな話はあると思うけど、比べると言っても、比較優位の理論だと、自分にやるべきことはある、というふうに考えることができる気がするから、私はこの理論を勝手にポジティブに捉えている。



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こうしたほうが良い、これはしないほうが良い、と考えをずっと続けていて、何かを忘れるのか。

走らなければ、と焦ると、少しも進めないのか、
すぐに分かる正しさに、見たらすぐに分かる良さに、自分を合わせようとすることに、いつの間にか躍起になっているのか。


自分で探した仕事をして、自分が探した家に住んで、生活をしていて、それがすごいことであるのに、すごいよ、と思うのに、結局もっと良くなるように、ということに囚われているのかもしれない。
でも、もっと良くなりたい、もっとこれをできるようになりたい、と思うことが別に悪いことじゃないだろう、ということも当たり前に思う。


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2022年の9月に、ドラえもんの誕生日まであと90年、みたいな話を聞いて、そのときくらいから、100年後はどうなってるんだろう、みたいなことをたまに考えてしまう。
人口が少なくなったらどうなるんだろう、みたいなことばかり考えている。

なんで満員電車は放置されているんだろう、ということもたまに考えるけど、人が少なくなって満員電車の問題が解決されるのが先かもな、と考えたりした。

なんというか勝手に絶望してもしょうがないしな、と思うし、でもかといって、今よりも良い未来を作りたいな、と考えるには、自分の力も時間も足りないと思ってしまう。


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がんばりたい!けど、空回りしている感じがずっとある。
どうにでもなる、大丈夫、とは思うけど、自分の話を聞いてくれる人を見つけるのが難しいのか、自分が人と関わって自分の話をするのを避けているだけなのか、よく分からない、もしかして大人ってそういう感じなのだろうか。
みんな忙しいし、しょうがないのかな、とも思う。でも、私は5年かかるか10年かかるか分からないけど、人の話を聞くことをもっとできるようになりたいな、と考える。


よく分かんないことばっかりだな、でもそれでも、自分のこともそれ以外の色んなこともあきらめない人でいたいな、という感じのことを思う冬の終わり。


春は曇りが多いだろうから、いっそのこと早く夏が来ないかな、と思ったりしている。
寒さに飽きたのかもしれない。


店に並ぶ柑橘類が段々と大きくなっている、という気がする。
この前は八朔を買って、昨日は甘夏を買った。

April showers bring May flowers
という言葉を思い出した。

待てば海路の日和あり、という言葉も思い出した。