『ラグタイム』雑感とあれこれ

『ラグタイム』を観たんです。その雑感を書きはじめたんだけど、思いのほかとっ散らかった。これはこれで今の自分の気持ちに沿っているのでそのまま置いておこうと思う。

とりあえず世迷言だけ吐いておくと、

東啓介くん、推せるわぁ………………。

そもそも東くんを観に行ったんだラグタイムは。FCに入ってるわけでもないし昔から彼を応援しているわけではないのでマジの世迷言として流してほしいんですけど、神よ東くんに歌を与えてくれて、彼を見出してくれてありがとうマジで。上手いからって必ずしも売れるわけじゃない。でも観たいからどんどんキャリアを重ねてほしい……アタイがいろんなきみを観たいから……。

以上です。

この作品に限ったことではないのだけど、物語をみていると、「次はこうなるのかな」とぼんやりと先を予想することがある。考えられないほど物語に没頭できるのがいい作品かといえばそうではないし、「こうなるかな」(なってほしいな)(ならないでほしいな)の気持ちが裏切られることが、必ずしもいいことであるとは思わない。

もちろん、物語のセオリーとして、このシーンはキャラクターにこういうことが起こってストーリーが展開してゆくんだな、とか、起こったことで観客の心がどう動かされるのか、ある程度の定石はある。あるし、それをなぞってくれて、言うなれば脚本や演出の思う通りの感情を惹起されて気持ちよくなれるのも、エンターテイメントの重要な役割だと思う。

わたしはこの手のやつがあんまり過剰だと辟易してしまうので、バラエティ番組の、別に面白くもなんともないのにタレントが笑ったり、笑い声のSEが入っていて『ほらここで笑えよ』ってされるのが本当にダメなんだけれども。

なにをみて、なにをかんじて、どこで笑ってどこで悲しんで、どこで怒るかなんて自分で決めていいし、あらかじめ用意された感情しか許されないなら、そんなものはいらない。

とはいえ、きっちりと作り込まれた物語に、心を動かされるのは豊かなあかしでもある。全部を否定したいわけでもないのだ。

『ラグタイム』は家族の物語。息子のモノローグからはじまり、モノローグに終わる。

それなりに裕福で、それなりに幸福そうにみえる白人の一家は、実は歪で、だけど崩壊するほどではない。良くも悪くも世界って見えているもの、一緒にいる人(子どもなら親)に依存しがちだ。ごく限られたコミュニティにすぎないのに、それが世界のすべてのように錯覚している。自分の常識は誰かの非常識ってことを、知っている人は案外少ない。

実業家で冒険家の父親。世界中を旅して色んなものを見てきたはずなのに、あんたはなにもわかってない!と、2幕の終わりで義弟に痛烈なひと言を浴びせられるこの人は、北極に向かう船の上で、移民船とすれ違う。

アメリカに向かう顔も知らない移民たちには、新しい暮らしを楽しんで、と祝福の言葉を投げられるのに、移民の航海士とはけして握手をしない男。彼はりっぱな、"正しい"白人の家長の姿なのだろう。黒人や移民がそこにいることは認めていても、自分と自分の世界に関わり合うものだとは思っていない。

彼は純粋に妻や、息子や、義弟、義父、自分の家族たちを守るために正しいことをえらんでいるだけで、悪意はないのだけれど、その正しさって、いったい誰のためのものなんだろうか。

父親が不在の間に、彼らの家のそばで出産をしたサラとその恋人のコールハンス、ユダヤ系移民の親娘のターテと娘などが登場して、否が応にも物語は展開していく。一家にとっては『存在しない』はずの人々が、彼らの暮らしの一部になっていく。

知らないでいることのすべてが悪いことだとは思わないし言えない。この物語のように、知ることがないようにマスクされている場合もある。しかも、父親は、意図して家族の目を塞いでいるわけではない。たぶん彼もそうやって育ったし、生きてきたのだ。

じゃあ、知ったときにどうすればいいんだろう。

ターテと初めて出会ったとき、母親は丁寧に挨拶をする。これは彼女が差別をしない立派なひとだから、というよりは、『誰に対してもきちんと挨拶をする』教育を受けてきた人間の所作のように感じる。父親が『白人以外と交流しない』という教育を受けてきたのと同じように。

息子にも、じろじろみてはいけません、失礼ですよ、と彼女は諭す。白人でない人間だからみてはいけない、のではなくて、失礼だから不躾にみてはいけません、と言うのだ。

親はいろんな意味で、子どもたちの指標だ。彼らの行動を制限したり、価値観を作っていく。もし、父親そっくりの母親や、唯々諾々と従うばかりの良き妻であったなら、のちのシーンで出会う子どもたちは友だちになれなかっただろうし、預かっていた『サラの赤ちゃん』を愛でることもなかっただろう。

志高く、より人道的なふるまいをしようと努力するひとはもちろん素敵だ。自分に差別意識、偏見があるということを、多くの人は自覚できずにいる。だけど多かれ少なかれひとにはそういうところがあるものだし、分かっていても振る舞いに出てきてしまうこともある。差別的な人間の育つ環境もあれば、逆もしかり。まったく正しい人間だけに囲まれて成長することができたなら、それはそれで、『無意識の差別』と真逆のことが起きる。知らずにすむことは必ずしも幸福じゃない。

終盤で、弟が、クーデターを計画している場に姿をみせる。彼は義兄の『正しさ』に真っ向からノーを突きつけ、遠くの街に越してゆく家族と共にはゆかない。巻き込まれないように、と逃避を選ぶ父親は卑怯だろうか? 『テロリストになった男の息子をよそへやって』、もう無関係になってもいいんじゃないかと父親は言う。母親が条件をのまないので、子どもを連れてどこかに行くしかできないのだけど。

それは家族への愛情かもしれない。自己保身かもしれない。少なくとも、弟は置いていかれるわけだから、ぜんぶ思い通りにできるわけじゃないし、家族を支配することが父親の仕事ではない。赤ちゃんをよそへやって、弟も含めた彼らの完璧な家族で『元通りの暮らし』をするのが、父親の望みだったとしても。

でも、元通りの暮らしなんてあるのかな。

見えていなかっただけで、こまかい問題はたくさんある一家だった。キッカケがあって噴出したけれど、無視したまましばらくは暮らせていたかもしれない。元通りって、本当に、しあわせな暮らしだったかな。

弟は『なにも知らなかった』幸福な男である。安定した仕事、裕福な暮らし。打ち込めるものがない、というちょっとの悩みはあるけれど、まあそのまま死ぬまで暮らすひとなんて、たくさんいただろう。

お綺麗な坊ちゃんのおまえになにがわかるんだ?と揶揄されて、「でも、彼は友だちなんだ」と言ってしまえる素直さと、裏返しの図々しさを持っている。『人種が違うから』『生きている世界が違うから』おまえにはなにもわからない、と同じだけ、『友だちだから(分かる)』も独りよがりの意見だ。

誰ひとり同じ人間なんていない。人間は結局わかりあえないし、わかりあえないことを飲み込んだうえで、『でも、友だちなんだ』と言える人がどれだけいるだろう。たぶん、分かったふりをしてしまう。分かった気がしてしまう。友だちだからって、分かっているとは言えないし、分からなくったって、いいのだ。「きみの怒りが分かるよ」ではなくて、「ぼくは怒っているよ」なのだ。

ここまで書いておいてなんだけど、難しい題材の物語だと、身構える必要は全くない。どう考えてどう観るかはその人の自由だし。

メッセージ性のあるものを、芸術、ないしはエンターテイメントのなかに織り込んで見せるのは難しい。遡れば、宗教音楽なんかもそうで、読み書きができなくても歌や音楽は聴けるし参加できる。意味がわからなくてもメロディに乗せて一緒に歌うことはできる。だから、というわけではないと思うけれど、この作品が日本で上演されるまで、25年かかっている。これはちょっと気になるな。

わたしは別に日本の人権意識が欧米に比べて遅れてるからアーッ!!とかはそんなに思ってない(遅れてるけど)(働いていてストレスを感じることがあるけど)。事実として、受け入れられる土壌が整ってない、『今じゃない』って判断されてきたんだな〜って。

演劇とかミュージカルの世界って、エンターテイメントの世界ではあるけど、テレビや映画とはちょっとズレてるな、とわたしは思っていて、万人受けするわかりやすさ、インスタントな感情の揺らぎ(それこそ、みんなが感動して泣いちゃう、とか、みんなで笑っちゃう、みたいな現象)も、もちろんあるんだけど、じっくり考えたい人向き(?)というか……身も蓋もない言い方をすると、観劇ってお金がかかるので、その出費をしても観たい、と考えられる人をターゲットにしてるからかなって。わざわざ時間と予定をあわせて、劇場まで行って、高いチケット払って、って手間をかけられる人たち。(わたしがそうって意味ではないです……)

そういう人たちをターゲットにしていても、テーマとして難しい、と思われてきたんだなって。難しいし、すぐに答えがでるものでもない。万人受けする分かりやすさがない。

問題提起をするための作品があったとして、『これは問題提起なんだ』と思って観る人はどれだけいるんだろう。わたしは難しい話が苦手なので(というと、わたしを知る人たちからは『なに言ってんだこいつは、と言われるかもしれない)、少し身構えてしまったりする。だけど、最近思うのは、難しいな、と感じた気持ちを忘れずにいよう、ってこと。べつに答えなんかすぐ出るもんじゃないから。答えが出せなかったからダメってことじゃなくて、『難しいな』って思ったことを覚えておきたいなって。

だから今これを書いてる。書いとかないと忘れるから。

それはそれとして、難しい話をやるにあたって、完成度の高さ、演技や、歌の出来栄えのよさってめちゃくちゃ大事だよね。粗があったらそっちに気を取られてしまう。(だからこそ、出来のよい作品からは『洗脳』されかねない危うさがある)

ラグタイム、その点でマジでケチのつけようがなかった。

テーマが難しいなって思ったけど、逆に、難しいと思ったこと以外で、ひっかかるところがなかったのは嬉しい。

これだけたくさんの登場人物がいて、いろんな俳優さんが出ていらっしゃると、言い方悪いんだけど事務所とか制作側の『推し』がキャスティングされることがままある。もちろん、集客力とか、もろもろの事情があるであろうことは織り込み済みで。結局どんなにいいものも人にみてもらえなければ意味がない。で、『人にみてもらう』ためのハードルを下げる要素として、話題性やきっかけって必要なんだよね。

正直言うと「えぇ……」ってなるキャスティング、よくある。人気というか、知名度(テレビへの露出度、ともいう)が高い俳優さんで、失礼ながら上手くないな……もっと上手な舞台慣れした俳優さんいるのにな……って思うことも。

特にミュージカルは三位一体(演技、歌、ダンス)が求められるから、大変なのはわかるけど。逆にいうと、スター性というのか、それらの要素がめちゃくちゃ上手でも、主演にならない人もいる。純粋に実力だけでのし上がってきた人っているのかな。いるだろうけど。劇団四季みたいに、プリンシパルでもアンサンブルでも同じ扱い(とされている)なんて稀だし、四季ですら隠れスター制だと思う、ぶっちゃけ。

いやわかるよ、わかるんだよ、だって舞台もビジネスなんだもん。チケが売れて製作費が回収できなきゃ次が作れないし。

主題からはそれるけど、これも『答えの出ない』難しい問題だと思う。わたしが大富豪なら回収とか考えずに湯水のように予算を使って……と思うけどそうはなりません。わたしが大富豪じゃないからじゃなくて、投資であるべきだからです。

舞台は客席も含めて、たくさんの人が作るものだと思う。観劇って、体験だ。どんな天気の日に、どんな服を着て、誰と観たのか。隣の人がどの俳優さんを追いかけてオペラを覗いてたとか、いいことも悪いこともいろんなことを書き留める。

あのシーンがよかったとか、あのひとの歌が好きとか、ここがちょっと気に食わなかったとか。「もう一度観たいな」とか。その作品に限らず、「この俳優さんを次も観たいな」も含めて。

そうやって、すこしずつ、『好き』を積み重ねている。分かったつもりでいるけれど、ときどき、「あっ、わたしってこんなものも好きだったのね!」と気づくことがあって面白い。

そんな夏のおわり。次はなにを観ようかな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?