欲望を編む —— 他者との関わりが形成する遊び場
はじめに
個人的な実感からスタートしたいと思います。私は大学院の修士課程にいて、今年が院生として最後の年になります。「自分のやりたいことは何だろう」という問いに対して、否でも応でも暫定的な答えを出そうと悩んだ時期でした。
人生を振り返ってみると、私にとって長らく切実だった問いは、つまるところ「自分のやりたいことが分からない」という問題でした。これは私にとって個人的な問題であるばかりでなく、おそらく多くの人が抱えたことがあるであろう普遍的な問題でもあります。
さて、「やりたいことが分からない」という私の個人的な問題に対しては、私を取りまく個別具体の状況を分析して、私個人の答えを決めればそれでおしまいです。抽象的なべき論から考えるとドツボにハマります。
これは極めて重要なポイントである一方で、やっぱり色んな人が個別具体的に持っている一つ一つの悩みというのは、ある程度、共通した構造を持っています。そういう「構造」について考えることを「一般化」とか「抽象化」とか「メタ」といったりしますよね。昨今のインターネットでは「主語がでかい」という指摘に挙げられるように、過剰な一般化の弊害が可視化されていますが、それでも私は「抽象的な概念を通じて人は体験を共有できる」という言葉のメリットを信じているので、必要に応じて一般論を考えてみるつもりです。
今回考えたいのは、ひとはどのような過程で「やりたいこと」を抱くに至るのだろうか、という問いです。もう少し対象を広義にすれば、ひとは「欲望」をどのように育てるのでしょうか。
多くの場合、あたかも「やりたいこと」が万人にアプリオリに存在することが前提されますが、果たしてこれは有用な見方でしょうか。私は、「欲望」はもっと動的に —— すなわち、初めから固定的に内在しているものではなく、他者との繊細な関係性の中で経験的に育まれるもの —— として捉えられるべきだと考えています。のちに詳しく説明しますが、これが表題の「欲望を編む」という表現の意図です。
欲望の欠如と輸入
なぜ私が「欲望」というテーマに興味を持ったかというと、それは長らく自分に「無気力」という深刻な問題があったからです。「やりたいこと」が明確にあって、それに向かって生き生きと動けている状態は幸せでしょう。しかし、あれをしてもこれをしても常に違和感がつきまとい、「何をしたら自分が楽しいのか分からない」という状態は心地の良いものではありません。
そんな中、就職活動を始めました。繰り返し「お前は何がやりたいの」と問われる中で、「本当はやりたいこともビジョンもない」と不貞腐れて言い放ちたくなる気持ちを我慢しながら、「やる気」という強さを要請する社会に適応するために、武装された自分を演じる日々でした。
しかし同時に、「就職活動なんてストレスでしかない」という当初の思い込みに反して、社会人の方々の「私はこれがしたい」という思いをたくさん聞くうちに、「やる気」ともいえるようなものが再び湧いてくることにも気がつきました。また、コロナの制限緩和に伴って少しずつ他者との交流を回復し、「最近こんなことしたんだけど、楽しかったよ」などの声を聞く中で、「自分もそれをしてみたい」といった健全な欲望を取り戻していく感覚もありました。「何もしたくない」という欲望不全の状態に陥っていたのは、コロナ禍の外出制限で引きこもっていたことが原因の一つだと気づきました。
このような体験を経て、私は欲望の源を他者に依存している —— という実感が、確信めいたものになってきました。
ある日、以下のツイートに出会い、精神分析のラカンという人が欲望形成における他者の重要性をすでに指摘していることを知ります。
欲望を欲望する
欲望の正体が気になっていた私は、すぐに斎藤環先生の『生き延びるためのラカン』に手を伸ばしました。
ここでラカン精神分析の膨大な体系に触れることは私の手に余るので、手短で恐縮ですが、本書で指摘されている「欲望」の性質として印象的だったものを三つピックアップします。
1. 欲望は他者からもらうもの
2. 欲望の欠如あるいは自覚困難 → 欲望を欲望する
3. 可能性が欲望を生み出す
ここで述べられた欲望の性質は極めて説得力がありますし、なんだか欲望を育てるためのヒントが少しわかってきそうではありませんか。このまま、もう少し考察を続けてみましょう。
欲望の共同形成
今度は、自分と他者の関係をより立体的に見てみたいと思います。これまでは自分が他者から欲望をどのように輸入してくるか、という一方向的な問題を考えました。例えば、「他の人がアレを欲しがってるのをみたから、自分もアレが欲しくなった」といった形の欲望形成です。
ですが、実際の欲望形成はもっと「共同作業」のような双方向的なものとして捉えられそうです。例えば、友人と話していて、山登りという共通の趣味を持っていることが発覚し、「今度一緒に山に行こうよ!」と意気投合したとします。この場面で起こっていることは、「欲望の輸入」というより、「欲望の共同形成」とでもいうべきものです。言い方を変えれば、他者との関わりの中で欲望という場が生まれる、と考えるべきかもしれません。
実は、精神分析の文脈で使われる「欲望」という言葉を私が最初に知ったのは、國分功一郎先生が提唱したモットーである「欲望形成支援」がきっかけです。人間が下す選択を、「意志」のような関係切断的・自己責任論的な観点ではなく、「欲望の共同形成」という伴走的な観点によって捉える重要性を指摘する概念です。
先生の図書の一つである『中動態の世界』では、かつて古代ギリシア語に存在していた「中動態」の考察をもとに、現代人が当たり前のように使っている「能動(する)vs 受動(される)」という二項対立が脱構築されます。そして、言語が新たに「能動 vs 受動」の構図を採用したことは、「意志」という概念が勃興したことと無関係ではなさそうである、と推察します。
さらに、「意志」という概念がいかに論理的に危ういものであるかを次のように指摘し、本来あるはずの因果関係を切断する作用を持っていると説きます。
因果関係の切断作用を持つ「意志」の弊害は、例えば「これはお前の意志でやったのだから、お前の責任だ」 —— といった形で、責任の押し付けという形で表出することがあると指摘します。
言葉が思考回路を誘導する側面を持っているとすれば(意志という言葉が選択の背後にある因果関係を不可視化するように)、まずはネーミングから変えていくことで、これまで無視されがちだった側面に人々の意識が向くというメリットがあります。
また、欲望形成の当事者の観点では「うつ病患者からみた欲望形成支援」という資料があり、糸井重里さんのキャッチコピーにも似た「欲望を欲望してる俺」という表現が出現します。
欲望を編む
ここまで考えてきたことをまとめると、次のような欲望の輪郭が浮かび上がってきます。
こうした輪郭に思いを馳せたとき、使い古された凡庸な比喩ではありますが —— 私に浮かんできたのは「編む」という言葉でした。一つ一つの糸(分子的な欲望)を丁寧に集めて揃え、合わせ組んでいくことにより、布という一つの作品(モル的な欲望)が出来上がります。編むという行為は、このようにとても繊細な作業です。
このような世界観を持つことには、一体どんな「実用的な」効果があるでしょうか。
「自分は主体的に意思決定ができる」といった形で、自分の強さを信じることは確かに有益です。いくら意志という概念が論理的に破綻しているからといって、現実的に社会から付与される様々な責任は引き受けざるを得ないでしょう。
と同時に、そのような「強い自分像」を信じるだけではなく、自分の弱さを熟知しておくこと —— 例えば、自分の欲望がどんなときに減退し、生き甲斐や希望を見失ってしまうのかを理解すること —— も、同じくらい重要ではないでしょうか。それは自分が弱ったときの具体的な打ち手を考えるヒントになりますし、他の人が似たような状況に直面したときの想像力にもなり得るからです。
他者から遊び方を学び、世界に自分の遊び場を作る
最後に、軽薄な自己啓発の文脈に回収してしまうきらいはあるのですが、「やりたいことがない」という悩みに対して、当事者として取り得るアプローチを考えてみます。
先に見た通り、欲望を育てる大事な要素は、「他者」と「可能性」です。自分が望む欲望が手元にないとき —— 例えばYouTubeはいくらでも見ていられるが、このままだと将来に対する閉塞感があるので仕事に対してポジティブな欲望を持てるようになりたい、といった状況など——、まずはそうした欲望を持つ他者との交流が不足していないかどうか、考えてみます。
引きこもっているとすれば、少しずつ外に出ることから始めてみる。小さなステップから始めることで、欲望が連鎖する仕組みに身を任せます。「友達と会いたい」という小さな欲望は、友達との交流を促進し、交流の増加はやがて欲望の多様なアイデアを生成します。人のあるところに人が集まるように、欲望のあるところに欲望が集まる。これは「収入」「知り合いの数」などの統計量がべき則・ファットテールに従う原理に似たようなもので、個人的には「欲望格差」という問題が新たに浮上してくるような気がしています。
ちなみに私は「欲望を自覚する」のが下手くそなので、「他者から遊び方を習う」というイメージを持っています。色んな人がそれぞれ自分の「好きなもの」を持っています。「自分はこれを面白いと思っていないが、あの人はこれを面白いと感じているようだ」と感じたら、その人は自分にはない「遊び方のアイデア」を持っているということです。他者が「これって楽しいよ」というシグナルを発していたら、その空間に上手に引き込まれることで、新しい遊びを自分にインストールします。そうして、他者の欲望と自分の欲望を繊細に擦り合わせる過程で生まれるのが、「遊びの空間 = 遊び場」です。
ここからは私の完全な主観ですが、人生を「遊び場づくり」と捉えるのが個人的に好きな理由が二つあります。まず、「遊び」とは目的や意味という呪縛から解放された行為のことです。そこに目的や意味は必要なく、ただ自分が楽しいと思えばそれをすれば良いのです。二つ目は「場をつくる」ことの重要性です。これは抽象的には「自分を有限化する」ことの重要性なのですが、要するに「世界のすべてを無理して引き受けようとしない」ことです。
世界は一方的に自分に向かってくるわけではありません。自らの働きかけが、空間=場に影響をもたらし、世界の見え方を変容します。他者と共同的に形成される欲望に繊細な意識を向けることで、自分が今どういう動き方をすれば、その時間と空間がベストな遊び場になるかを考える。欲望の擦り合わせがうまくいかないとき、我々は他者と不必要な摩擦を起こしてしまいます。自分の欲望を一方的にぶつけるのではなく、互いにとって理想的な欲望の均衡点を、共に探っていく伴走的な視点を意識の片隅に持っておく。
こうして言語化したものはどれも不器用な私が苦手としていることですが(得意なことはわざわざ言語化せずに済むものです)、しなやかに生きる上で重要なことではないかと思っています。
参考にさせていただいた資料など
公開後追記 5/17: 欲望形成支援について、すでにコーチングの文脈で詳細な解説があったようです。欲望形成支援が形になっていくリアルな可能性に、希望を感じました。
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