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「他人」と「自分」は違う、の本質について

ここ最近、「他人」と「自分」は違う、ということの本質について考えていました。

他人にとっての「本質」と、自分にとっての「本質」は異なる

僕がずっと傲慢だったのは、「自分は他人よりも物事の本質を見抜いている」という漠然とした思い込みがあったことです。しかし、「他人にとっての本質」と「自分にとっての本質」が異なるという前提を見落としていました。そもそも、自分が物事を観察するときの着眼点は、自分が「本質」だと考えていることに左右されるので、「自分だけが本質を見抜いているのだ」という誤謬は起こりやすい。

例えば、「アカデミアに身を置く人」と「ビジネス界に身を置く人」のコミュニケーションコストは高くなりがちです。アカデミアに身を置く人は、自己批判的な態度を常に求められるほか、「正確性」「一般性」を重視した言葉を選びます。一方でビジネス界は実用性が肝要です。「分かりやすさ」「売り上げへの直結性」が優先される場面が多く、真実性そのものよりも、プレゼン力や説得力が勝負の鍵を握ることが往々にしてあります。扱う言語が共に日本語でも、やはり日本語という枠の中で扱われる言語(language)が異なります。

僕はnoteにおいても、どのような言葉を選択すべきか非常に迷います。まず、このnoteを読んでくださる方がどんな文脈を所有しているのか、全く見当がつかないからです。「なんかこの文章、堅くて分かりづらい」とか「長すぎる」とか感じられたり、逆に「エビデンスが無くてフワフワした文章だな」と感じる人もいるでしょう。

他人にとっての本質と自分にとっての本質が異なるという前提に立つと、自分の持つ価値基準で安易に他人を値踏みしないように気を配るべきです。「あいつは物事の本質が見えていない」とか「あの人は頭が悪い」という絶対的な命題として思考様式を批判するのではなく、「どういう文脈においては、本質的ではないのか」と、条件・限定句(if節と呼ぶことにします)を提示する必要があります。

それは、自身の「宗教性」を相対視することでもあります。ここで宗教性と呼んだのは、「if節なしに(つまり絶対命題的に)、通用すると信じている前提や原理、価値」のことです。自身の宗教性にif節を付与して相対視するためには、色んな業界に身を置き、どんな価値基準がその業界で採用されているのかを見つつ、多様な価値基準を比較する必要があります。一方で世界を広げすぎると、その分、対人コストが上昇するので、気分的限界に留めておくのが良いのでしょう。

この話題について、友人から教えてもらった言葉をシェアします!
"It is the thesis that statements in a certain domain can be correct or incorrect, only relative to some framework." [Phronesis, Richard Bettより]
=ある領域における記述は、あるフレームワーク(限定句)に対してのみ、正否を判断できる命題である。

僕が「if節」と呼んでいるのは、思考のフレームワーク(限定句)のことでもあります。
A・Bという異なる意見が議論でぶつかる時、「考え方は人それぞれ」という相対主義は議論の前提です。AでもないBでもない、Cを弁証法的に導くことが理想的でしょうが、それが上手くいかない時はAやBの成立条件を明らかにする(=解像度を高める)と良さそうです。

本質的なことは、文脈なしで伝えると往々にして陳腐に聞こえる

言葉は、文脈(物語ともいえる)を共有しないと、伝達の際の解像度が著しく低下します。その点、有名人は解像度の高い発信を比較的しやすい。それは、日頃からメディアなどの多様なチャネルを通じて、「その人となり」が多角的に描写されているからです。一方で僕のような無名の人間の場合、読者の方は僕がどんな人間なのか、どんな文脈を持った人間なのかが想像できないため(そして僕は現時点で分かりやすい物語を持ち合わせていない)、「僕にとって本質的なこと」を伝えても、文脈なしでは変に当たり前のことを言っているように思えたり、なんだか言っていることがよく分からない、となってしまいます。

そのため、基本的にファクトベースでない、自分の意見や思想は「話す人を選ぶ」そして「理解してもらうことを期待しすぎないこと」というのが定石です。それは互いに文脈を共有していないと理解し合うことが難しいからです。僕はnoteを始めたての頃は意見ベースのことばかり書いていましたが、ファクトベースの記事へ移行していくように努めました。しかし、今回のこの記事はファクトよりではないので、どこまで伝えられるのだろうか、と少し不安な気持ちで、なかなか筆が進みませんでした。言語化能力の実力不足を日々痛感させられます。。これをnoteで書いているのは、noteという空間には独特な安心感と信頼感があるからです。

相手の価値基準や思想は、なるべく批判するべきでない

相手の考え方をまず受け入れ、一旦肯定することは、冷静な議論に不可欠です。批判は、条件を絞り(if節を明示すること)、絶対命題(人格そのものの否定など)を避けることが肝要です。「お前は馬鹿だな」「お前は物事をわかっていない」という批判は意味を持ちません。「〜という条件においては、〜という考え方は、〜という点において不十分である」「あなたの考え方は、こういう点で、こんな不利益やリスクがあるかもしれない。代わりにこう考えれば、こういう利益があるのではないか」と言った批判にしなければ、解像度の高い議論はできません。

相手の思想を評価する上で重要となるポイントは、僕は二つあると思っています。

1. 思想を採択する本人が幸せになるかどうか
2. 社会がその思想を採択した場合、それがどれだけ社会に調和をもたらしうるか

倫理的な文脈においては、カント流に言えば1.は仮言命法的(〜されたければ、〜するべし)であり、2.は定言命法的です。1.は仮言命法であり、if節を伴う倫理のため、ifが成立しない個人にとっては倫理を採択するメリットがありません。例えば、「信頼されたければ、嘘をつくべからず」という命題は、「俺は信頼されなくたっていいし〜」という人に通用しない倫理です。この命題からif節を取り除くと、「嘘をつくべからず」という絶対命題となり、仮に社会全体がこの倫理を採択すると、社会全体に調和をもたらします。

インターネット上では日々、熱い議論がかわされていますが、僕は相手の意見を観察するとき、特に2.を見ています。発言の延長上に、当人が「どのような未来を描きたがっているのか」を推測すれば、それが善意に基づくのか、エゴに基づくものなのかは容易に判断できます。ちなみに「偽善」という批判は1.のif節に対する批判ですが、人が行動を起こすときにif節が付随していることは至って自然です。連続起業家の家入さんは次のように述べています。

自分と他人の関係性に「非対称性」を感じたら、まず自分の認識を疑った方が良い

(2021/4 追記: 改めて読み直してみました。この節は半分、自分に向けた言葉でしたが、広い範囲の人に当てはまる考察ではないように感じました。これが当てはまらないケースが多々思いついたので、批判的に読んでいただければ幸いです。すみません。)

「どうして自分ばかりが被害者なんだ」とか「どうして自分だけは理解されないんだ」と感じたら要注意です。これを僕は「認知の非対称性」と呼んでいます。

例えば自由主義的な気運の高まっている現代において、「誰が強者で、誰が弱者なのか」という観点は注目を浴びています。ジェンダーの文脈では、「日本人男性」という属性は生まれながらにして加害性を孕んでいます(人種差別的な文脈では「白人」も同様)。しかし、ここで注意しなければならないのは、「加害性と被害性は二元論ではなく多次元であり、そして二値分類ではなくグラデーション、スペクトラムである」ということです(もちろんこれは一男性としてのポジショントークではなく、責任を回避する意図ではありません)。大抵、人間は「自身の所有する加害性」に無自覚です。

例えば、高校時代に自分に対するいじめの首謀者だった人間が、"社会貢献をしたい"と語り出したら、あなたはどう感じるでしょうか。「それは欺瞞だ」と感じるに違いありません。欺瞞が最も起こりやすいのは、自身の所有する加害性に人が無自覚である場合だと思います。「自分だけが理解されていない、そして自分の話に誰も興味を持ってくれない」というのは、同時に「自分は他の人を理解していないかもしれない、そして他の人の話に興味がなかったが、そのことに自分は無自覚である」という事実を示唆している可能性があります。とはいえ、相手が本当に悪質で、関係性が非対称な場合はもちろんあるので、まず認識を疑った後、それが真だと感じるならば適切な対処をする必要があります。

きっと人は、自分が積み重ねてきた苦労・努力・手間を無意識に評価する傾向にある

自分が積み重ねてきた努力にプライドを持てば持つほど、そこに対して積み重ねのない人間に対して無意識に憤りを覚えるようになります。厳しい社会経験を積んできた社会人が、学生を見て「なんだこの世間知らずは」と思う事例はよくあります。

本質とは「機能」のこと、そしてミリカンによる目的意味論

さて、結局「価値観の違いってどこからくるの?」という問題を考えるために、個人にとっての本質とは何か、そして機能とは何かを考えてみます。

ミリカンという哲学者は、人間にとっての「表象」そして「機能」とは何かを考えるために、ダーウィニズム(進化論)を採用しました。これは非常に強力な説明で面白いです。『哲学入門』(戸田山、ちくま新書、2014)から次を引用してみます。

私の心臓が血液循環という本来の機能を持つ ⇔ 私に心臓が存在しているのは、私の先祖において心臓が血液循環という効果を果たしたことが、生存上の有利さを先祖にもたらしてきたことの結果である

これが普通の機能の説明とは逆の因果関係になっていることがお分かりだと思います。普通の機能の説明では、「心臓が血液循環という機能を持ち、私たちを生存させている」という順序です。しかしこれでは、血液循環という機能が発達した原因を説明してくれない。このような考え方を、機能の起源論的定義と呼びます。

ちなみに同じく著名な哲学者であるニーチェは、人間の解釈は、「保存・生長の諸条件」に規定されていると論じました。保存・生長の諸条件とは、すなわち人間の解釈の様式は、人間の生存に有利な方向へ最適化されてきたということを意味します。「真理はない、解釈だけが存在する」というニヒリズムは有名です。

さて、このような考え方に基づき、「ある特定の考え方や思想、価値観の採択」を「機能」として捉えてみます。すると、結局のところ、個人ごとの思想の違いとは、個々人により異なる生育環境に別々に最適化されてきた帰結にすぎないということです。例えば、「ビジネスで結果を出さないと明日の飯が食えない」という人は、抽象的なことを考えるよりもまず、営業してモノを売ることが最優先になるわけです。ここで物理とか哲学のことを悠々と考えていると餓死してしまいます。実用主義の人が、理論家を嫌う側面はこうした部分にもあると思います。(「ブラックスワン」著者のNN.タレブ流に言えば)理論家は身銭を切っておらず、安全圏から机上の空論を述べているだけ、という主張がされることがあります。

おまけ: 機械学習と人間の思想選択のアナロジー - 苦痛の最小化手段としての思想・価値観の採択

これを機械学習の文脈で捉えると、面白いアナロジーが成立します。機械学習では、学習用のデータセットを特定のアルゴリズムにより学習させ、新しい事象を分類できるような分類器を作ります。例えば、有名な例では、花のアヤメの「ガクの長さ」「ガクの幅」「花弁の長さ」「花弁の幅」という4種類の変数が格納された150個のサンプルをもとに、アヤメの種類を言い当てる分類器を作ります。

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画像引用元: Wikipedia Commons

データが特定の方向に傾きすぎていると(例えば東北地方にあるアヤメだけを学習対象とする場合など)、分類器は、東北地方以外にあるアヤメに対する分類性能が落ちる可能性が高い。あるいは、サンプルごとの細かな違いをあまりに敏感に感じ取ってしまったがために、新しいサンプルに対して上手く分類ができないといった過学習を起こす可能性もあります。未知のデータに対する適応力を、モデルの汎化性能と呼んだりします。

単純化しすぎなのは重々承知ですが、人間が価値観を採択する時にも同じような問題が起こります。人生経験に応じて、事例を収集していく中で、たくさんの事例に共通する法則性や一般性を見出すことで意思決定や問題解決の負担を減らしていく。その人が現在抱えている状況下で、その人が感じる苦痛や快楽に対して最適化(=苦痛を最小化、または快楽を最大化)された思想を採用するようになります。

しかし学習の元となる経験は人によりけりであり、経験(文脈)が違えば人により考え方が違うのは当然のことです。範囲の狭い経験だけでは過学習を起こすでしょうし、「自分に対して十分に機能する価値観は、他の人にも十分に機能する」という思い込みは起こりがちです。思想に万能薬はありません、効く人と効かない人がいます。もちろん、これは「考え方は人それぞれ」という相対主義的な思考停止を推奨するものではなく、この前提に立った上で、現状の社会に対する最適解を求めるのが我々の仕事です。

まとめ

「自分」と「他人」は違う、そして完全には「理解し合えない」という前提に立った上での議論を心がける。意見交換の際には相手を尊重する。自分の認識論的限界に注意する。以上が僕の考える、美しい議論の作法です。




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