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ひとの尺度を知ること

こんにちは。今日の12時半におにぎりと揚げ出し豆腐を食べたにもかかわらず、その1時間半後にインスタントラーメンをたいらげました、みうです。
友人にノリでカゴに入れられたラーメン…入れられてしまった以上食べるしかなかったのです、はい。仕方ない仕方ない。デブ活デブ活。

さて、早速ですが、本日noteのマイページを開くとこんな通知が届きました。

わーい\(^^)/

このような通知をいただくのは初めてのことでした。
お読みいただいた皆様、スキをしてくださった皆様、ありがとうございました…!
そしてひとえに普段支えてくださっている皆様のおかげです…感動です。

この記事では正直、はなから愚痴を書くつもりでした。
しかし、ただ愚痴を吐くのではなくnoteという場に投稿するという経緯を経ることで、コミュニケーションやについて考え直す機会になったと感じます。

コミュニケーション、対人関係における基本指針のようなものを私はかなり大切にする質なので、それを著したものがこうしてあまりにも目に見えやすい形で評価されると嬉しいものです。笑

これがきっかけというわけではなく前々から書こうと思っていた話なのですが、私なりのコミュケーションのポリシーを書く機会をこれからはさらに増やしていこうと思います。
それは、自分の中で改めて整理をするためのワンステップになると考えているからです。

前置きが長くなりましたが、今回は軽く「尺度」という自身の考えを紹介したいと思います。
(※難関を極めた課題のおかげで脳の深部がヘタレに成り上がっているので手短に参ります)

尺度 ―――価値観、個性、歴史

言い換えれば価値観とも呼ばれるそれは、コミュニケーションにおける最も大切にすべきものだと私は考えます。
相手と会話にする時は、相手の価値観を知りながらその尺度にある程度照準を合わせて会話を展開していくのが私の癖です。

この人はこういう考え方をするから、こう振る舞おう。
あの人はああいうことを小耳に挟むのも酷く嫌うから、わざわざ言わなくてもいいかな。

そんな具合です。

だからこそ、どうして人によって振る舞い方がそんなに違うんだと不満交じりに言われることもあります。私自身も、「誰にでも同じように接する」ことができる人は羨ましく思いますし。
これはまだまだ改善の余地がありそうです。

尺度というのはベクトルのようなもので、長さと向きという概念があります。でもベクトルのように直線的ではなく、面積的広さや空間的広さも持ちうるものです。

同じ時間や空間を共にしていると、なんとなく、その人の周りにそれが広がっているような感覚がするんですよね。
ある人はある1つに長く伸びたベクトルを持っているし、ある人は満遍なく様々な方向にベクトルが伸びていて球を描くけれど、その球はとても小さい。

私は対話や観察を通して、その人の尺度の広がる方向やその広さを感じ取ります。

それはその人の価値観であり、個性であり、歴史であり。
誰も完全には分かりえないその尺度という概念は、厄介なものでありつつも、上手く取り扱えるようになれたならきっとその頃には良い関係を築けていることでしょう。

完全一致の尺度は誰も持ち合わせない

上でさらりと流してしまいましたが、大切なことなのでもう一度言いますと、他人の尺度を別の他人が完全に知ることは不可能と断言してもいいでしょう。
生まれた瞬間からある人から片時も離れず心の中まで見透かしてきた人などいないのと同じです。

もちろん私自身、「この人とは分かり合える」という感覚をもったことは何度もあります。そしてその感覚は非常に美しいものです。
ただ、それは私に見せている尺度の範囲で分かり合えているだけなのであり、そうでない部分においては理解できない尺度の差が確実に存在するはずです。
少し悲しい聞こえになるかもしれませんが、少なくとも私個人はそのように考えています。

裏を返せば、そうと分かっていながら「この人とは(この面で)分かり合える」と感じた時は、私はもっとその人にアプローチをかけたくなります。すなわち、親密度を高めようと動きます。
それでさらに分かり合える場合もあれば、そうでもない場合もあります。どちらであっても、いいことだと思いますがね。

今後投稿する予定の「コミュニケーション」の話題では幾度となく出てくるような気がします、この「尺度」という感覚。
少しでも何か共感できる点や気づきを与える記事になっていたら幸いです。

そして改めて、今後もよろしくお願いいたします。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。