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後悔しない生き方

後悔とは、一体なんなのか?



事あるごとに「悔いの残らないよう…」と先生が口にする。

時を巻き戻すことはできないので、後になって「ああすればよかった」、「もっとベストを尽くせたのに」、と悔しがらないよう精一杯頑張りなさいということだ。

後悔だらけの人生なんて聞くと少し引け目を感じるように、私たちはきっと後悔のないように生きている。今できることを、今したいことをと考えて生きることは、悔いの残らない結果を導いてくれる。「いつでも」という保証はできないけれど。

以前少し書いたように、人生にはいつまでも選択や決断というものがつきものだと思っている。

選択を誤ったことに気がついたとき、私たちは後悔をする。

自分が選んだ道よりも、選ばなかった道の方が正しかったとか、楽だったとか、有意義だったとか。
あるいは、誰かに勧められたから選んだけれど間違っていたとか、あいつのせいだとか。こちらには後悔だけでなく怒りのようなものも伴う。


悔いが残らないようにとするなら、まずは誰かのせいにするのはやめた方が得策かもしれない。
自分の人生の行末を決断したのは自身以外の誰かではない。自分の人生は結局自分で決めている。
誰かに勧められて、それを受け入れるという選択をしたのは自分なのだから。

あいつのせいで、なんていつまでも根に持っていたら心まですり減ってしまう。そんなことをしている余裕があるならもっと有意義に使えないだろうか、と思うのだ。

「自分の人生はその瞬間を生きる自分が決めている」

こんな意識を強くもち始めると、後悔とは疎遠になるのではないだろうか。

分からない。私が何かズレているかもしれないので、普段に増して誰かにこの説を押し付ける気はない。

それに、私の想像が簡単に及ぶ範囲での後悔なんて他の誰かにとっては些細すぎるかもしれない。悔いても悔いきれない気持ちを胸に秘めることだって、長く生きれば増えてくるはずだ。そういう懸念は、この場所ではいつだって持ち合わせている。


でも、些細なレベルの後悔や失敗に動揺してしまうとき、この言葉は確かに何かしらの力にはなってくれるように思う。

あとは、後悔してもそれを転化できるのも大事だろう。

失敗という言葉に似ている。
それを糧にどう生かすか・今後どう生きるかを真摯に考えるのは、ポジティブ・ネガティブの枠を超えた力だと思う。

後悔にまみれることは、過去に執着しすぎることだ。
過度の執着によって今や未来を見る余裕を失ってしまったら、それはおそらく、いわゆる「生きづらさ」のひとつになるのではないだろうか。

得体のしれないものとうまく付き合うのは難しい。だからこそ、よく知ろうとしなければ「難しい」という現状は永遠に変わらない。