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身を置くことで見えるもの

「相手の言動が正しくないと思ったとき、対抗しようとして攻撃的になり、お互いにいがみ合ってしまうのはよくあることだ。先入観をもって頭ごなしに否定するよりも、お互い落ち着いた状態で話し合った方が互いのためだ。」

という文章を書きたかった私。

今日、上記の前半部分にある言葉のその通りに、憤りをあらわにしてしまった。

きっかけは本当に些細で、私が変に気を遣わずに正直に話せばいいものを、なんだか機嫌が悪そうだと思って敬遠したことである。

普段は良好を極めている親子関係がぷっつり切れてしまった。

モヤモヤする気持ちがものすごい速さで渦巻いて、止まらなくなってしまった。

物を壊す気はなかったけれど気は立っているので、カーテンを勢いよく閉めたら壊してしまった。(直さなきゃ…)

その後も部屋にこもってボロボロ泣きながら、ひとりブツブツ文句を言いながら作業。
途中でどうして泣いているのかも分からなくなったり、絶対この後こういう展開だよ…と落ち込んだりしながら、1、2時間ののちに部屋から出てきた。

最初に書いた「お互いに歪み合う姿勢」というのはずっと前から書きたかったテーマで、人同士の争いが生まれるのってだいたいそれ由来なのではないかと思っていた。
そして、自分の正しさを守るために相手を間違っているものとして認識しようとしているのではないか、とも思っていた。

「じゃあ、衝突している時からお互いに歪み合わないように意識する」なんて、なんだか綺麗事のような気がして。

書くのをやめてしまっていた。

今日の私みたいに怒っているときは、そんな冷静を装った"正論"は邪魔でしかない。
この点では本能というか潜在意識というか、そういうものに抗うのは難しい。
同じように、違う生き方をしている人たちにとって"正論"とは正論ではないのだろう。

それでは私が書きたかったことは排除されるべきなのかというとそんなことはないはずだ。
もし排除されるならば、この世の中に秩序正しいという概念はないだろう。



ひとつの論が保ちうる正しさには限りがあるように思う。
論を練り上げれば練り上げるほど深くなっていくが、だんだん分化して、噛み合わせの良い論同士が回って大きなひとつの姿を為している。

噛み合っているもの全体を大きな目で見たっていつまでも穴だらけなのだから、ひとつの論では到底薄っぺらく脆いのだ。

さて、たとえその一瞬は感情的になってしまったとしても、落ち着いた頃に振り返り、もし自分の至らなさがあったのであれば素直に認め、その気持ちを相手に伝えることができれば、より強固な関係になると信じている。

一度対立したもの同士、お互いが自分の悪いところを認めて正直に伝えるのはとても難しいことだと分かっている。もし自分だけが反省して正直に伝えたら、ただ相手に屈するだけのように感じてしまうから。

「一度こじれた関係を元あった通りに戻すことができたなら」。
そんな願いが必ず叶う保証はどこにも見当たらない。

お互いに歪み合ってしまうなら、それはそれとして認めて、そのあとのことを考えた方がよほど現実的なんじゃないかな、とも思う。
そのためには相手と衝突している最中に「自分はこんなに正しいことを言っているのに」という意識よりは、「ああ、対立している」という意識をもっている方がきっといい。そちらの方が幾分対等だ。


なので、当初私が書きたかった言葉は、ある点では的を得ていたかもしれないが、その裏側がボロボロだったらしい。

自分を当事者において考えたこと、あわよくば考えるだけではなく自分が当事者になって感じることは、いつまでも大切にしていたいものだし、感情をそのまま放らずきちんとそれに向き合うのも大事なことだと改めて思うのだった。