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「人思い」のさじ加減

自律、自立を心がけるようになってからは多少改善されたような気がするが、以前私は他人に振り回されがちだったように思う。

というのも、大切な人に対してはそれを最優先する勢いで、そうでもなくてもほどほどに勘案する、といった具合に、他人が思う一番をなるべくかなえようと努力してきた。

それは、人によって価値観はバラバラであり、捉え方も様々で、過去も様々で、誰もがお互いを100%でわかり合うことはほぼ不可能で…という話になってくる。


ここから先は、大切な人に対して最優先を心がけてきた、というところについて書いていきたい。


自分がこうと思っても、相手がそのように捉えたならばそちらに照準を合わせるべきだし、私利私欲なんて排除しなくちゃ、と思っていた。
自分が好意でやったことがそうと受け取られなかった時や、無意識の行動が他人を傷つけた時に、ひどい責任を背負っている気がした。とんでもないことをしてしまったのではないかと落ち込んだ。

そのくらい、私は、自分が近づきたい人の感情を逆撫でするのが怖かった

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それは代償なしにかなえられるものではないと分かっていた。
もちろん必ず相手がいい思いしかしないという保証はないし、自分も相手に合わせよう、自分はその次にしよう、と意識するだけで労力は使うものだ。

大切な人に対して気持ちを注ぐというのは、相手にとっての最良で動くこと。相手の喜ぶことを考えて、それに従うこと。
そんな考えは、確かにひとつの方法かもしれないが、自分の場合はちょっと行きすぎていた。


そういうわけで、相手に合わせすぎてしまうと疲れてしまう。
そんなことはずっと前から分かっていたはずだったのに、過度の相手ファーストから脱却できずにいた。


「裏切り」に対する恐怖心が植えつけられているのだろうと感じる。


最初から敵なら、(単純に考えると)優しくする必要なんてなくて、敵対心をあらわにして真っ向から勝負してもいい。
でも、味方はその逆だ。自分の力になってくれるのだ。
注いだ気持ちも、情熱も、時間も、信頼も、裏切られてたまるものかと思っていた。

一度味方につけたならば、裏切られないように。
裏切られないようにというか、そうなってしまうよう仕向けないように。自分の首を絞めないように。

その一心だった。

今はと言うと、その恐怖心は全く拭われていない。

でも、それ以上に自分をもっと大切にしたいという気持ちが強くなっている。自分で仕向けてしまったらそれは自分の責任で、ある程度は自分のコントロールできる範囲にはないものだし、という思いが強くなっていった。

それぞれに合わせて、それぞれにベストを、なんていつもやっていたら、身もやつしてしまう。

自分の首を絞めないようにと思ってした行動で、首を絞めていた。


正直、疲れてしまった。恐れ続けることは、体力を必要とする。

それならば、基本を優しい人間に仕立てれば大概のことは済む話だと気が付いた。
それが難しいのだけれど。優しい人間って、目指してなるものでもないと思っている自分もいる。

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それに、そんなに個人に合わせて振る舞いを変えていたら、自分が誰かにとっての裏切り者になる可能性もあるのではないかと思っている。
その痛みが、自分には一番刺さる。

自分の軸をブレないように保つ手段として、「一人ひとりに」という観点からのベストがあってもいいかもしれないけれど、「自分を大切に」という観点からのベストがあってもいいのではないだろうか。

今まで自分がしてきたことが間違いだとは思わない。でも、他人との関わりの中でその人のことを最優先にして自分のことを後回しにし続けるというのは、自分に対して結構かわいそうなことをしてきたのかもしれない、と思った。

自分も一人の人間だ。そしてそれを一番長く、一番近くで見ているのは私だ。

そんな存在の人が、自分を大切にしてあげることができなくて、他人を大切にするというのは不可能なことなのかもしれない。
そんなのも、世間で広く言われていたことなのに、素直に受け止められなかった自分がいたことを思い出した。

慢心が怖い。すでに手遅れかもしれない。
それでも私は、「自分がしているように、他人にも大切にされたい」と願ってやまない人間なのかもしれない。

そこに期待を乗せてはいけないことを、知っている。

難しい。