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本当に「知らない方がよかった」のか

「知らないままの方がよかったな」、「見ない方がよかったな」というものは誰にでもあると思う。

真夜中にSNSでラーメンやら何やら食欲をそそる画像だって見かけない方がいいですよね…というのは余談までに。



世の中は広い。
星の数ほどの人間が作り上げた今の社会は、あまりにも広すぎる。
星の数ほどの人間が織りなす人間関係は、あまりにも多様であり、複雑だ。

私はその社会や人間関係の中に包摂された、小さな小さな欠片。

欠片に過ぎないので、私には知らないことがたくさんある。自分の目で見ていないものもたくさんあるし、そちらの方が多い。

最近、「知らないままの方がよかったな」と思うことがたくさんある。
同時に自分がいかに無知であるかにはっとして、ときにショックを受け、恥を知るわけだけれど。

知らぬが仏。そう、無知はときに至福だ。

他者から見てどう映るかの保証はないが、不幸な事実に気がつかない方が当人は幸せでいられる、というのは往々にしてあることだ。

あの人の知られざる一面?
自分の知られざる一面?
社会に飛び交う意見?
世界を動かしている力?

マクロな世界からミクロな世界まで、私の知らない「何か」は私に語りかけ、私から「無知」を奪い去っていく。


本来私は無知というものにあまりいい印象をもたない人間だ。少なくとも知ろうとする姿勢は必ずもっていた方がいいし、自分が無知であることを常に自覚していなくてはと思っている。

でも「自覚」には限界があるし、いざ知らなかったことを知ったときには「知らないままの方がよかったな」と思ってしまうこともある。身勝手極まりないし矛盾もいいところだと自分でも嫌になるが。

またひとつ考えなくてはいけないことができた、またひとつ頭の隅に留め置かなくてはいけないことが増えた。それがたとえばいつも一緒にいる人の知られざる秘密だったりするとものすごくストレスになることもある。

「あの人、実はね、…なんだって。」

表では「へえ」と受け流すけれど、心の中でずっと引っかかってしまったりもして。引っかかってしまうくらい毛羽立っている私の心にうんざりもして。

知ったときに「知らないままの方がよかったな」と感じる事柄は、きっと私にとって知った方がいい事柄、あるいは知るべき事柄なのだろうな、と思う。
なぜなら私は無知な存在だから。

まして、都合の悪くなることは耳を塞ぐこともできる時代だ。自分のアクセスしたい情報にだけアンテナをはって、残りは右から左に受け流すだけでもなんとかなってしまうのかもしれない。
(もちろん、知りたくないのに知ってしまうものもたくさんある、特にミクロな噂話とか)

小さなものから大きなものまで、私たちが得る情報はほとんど私たちの「都合」で選別されている。知らない方がいいと思う事柄には、きっと自分からは手を伸ばさない。

だから、ある事柄を知ったときに「あー、知らなければよかった!」とむしゃくしゃするのは、(もちろん疲れるので勧められたくはないが、)結果として自分にとってプラスになっているのではないかな、と思うのだ。


とはいえ、つまらないものまであまりに詳細に知ろうとするのはなんだか馬鹿馬鹿しいような気もするし、それを知ったからといって人より偉いわけではない。
その辺りのいい塩梅探しが今日も進まなくて、私は今日も「知らないままの方がよかったな」と思ってしまった。
どうしてこんなに毛羽立っているんだろう、なんて不思議に思いながら、今日も悩んでいる。