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「自分」と「私」の境界線

1週間ほど前、こんな記事を書いた。自分はこういう人と一緒にいたいし、自分自身もそうでありたい、という意思表明的な記事だ。


この記事の最後で触れたことだが、私はこの記事において「私」と「自分」を意識して使い分けた。

普段話しているときはもちろんそこまで意識して使い分けている訳ではないけれども…(実際、そんな風に書いてから、記事を書く時にはちょっと気にかけてしまっている。うん、疲れる。)

しばらく時間が経ってしまったが、このことについて書いていこうと思う。昔好きだった哲学に通じるものがありそうな予感。
まだ自分でも考えが足りないところもたくさんあるし、これを大真面目に論じていたら疲れ果ててしまうので、ほどほどに突っ込みを交えて書いていく(?)。

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「私」と「自分」の区別

単純といえば単純な話で、誰かと何かをしているのは「私」で、考え事をしているのは「自分」だ。

なぜ「誰かと何かをしている」方が「私」なのかと言うと、私という言葉は比較的誰かと話している時に使われがちな言葉のように感じられるからだ。


「私」というのは、物理的、社会的環境に最も近いところにいる「自分」だ。「自分」が考えていることを人から見えるようにする時、それは「私」になる。「自分」の表面を覆っているのが「私」というか。
本当に説明力が乏しくてつらい。(じゃあなんでこんな記事書いてるんだ…)

「私」は物理的環境に晒されているので、かなり流されやすい。時には「自分」が思ってもいないようなことをべらべらとしゃべり始めることもあるし、緊張や恥ずかしさから、「自分」が話したいことを口にしないこともある。

一方「自分」は、物理的環境からは遠い位置にいるので、「私」ほど周りからの影響を受けにくい。影響を受けにくいといっても、全く影響がない訳ではない。人の言葉に感化されるし、社会に溢れる色んなものを内面化するうちに変わっていく。

どちらがより主観的か問題

ふと浮かんだ問いがこれだ。どちらの方が主観的で、どちらの方が客観的なんだろうか。
結局どちらも主観でしかないわけだ。でも、どちらかといえば、と10秒くらい考えてみると、「私」の方が主観的なような気がする。

先ほど書いたように、その場に合わせて思ってもいないようなことをしゃべりだしてしまうくらいならそちらの方が主観的な気がする。

そして、冷静さという観点で比べるなら、圧倒的に「自分」の方が冷静だ。「客観 ≒ 冷静なものの見方」という考えに基づくなら、やはり「自分」の方が客観的、つまり「私」の方が主観的だ。

かといって本当の自身の内部にいるのは「自分」なのだから、こっちの方が主観的なような気もする。辞書を引いてみると「近世以後は認識し行為する人間存在の中心である自我をいう(goo辞書)」とのこと。え、その理論でいくと、「自分」の方が主観じゃないですか?


複雑だ。誰だこんな話を始めたのは、怒らないから出てきなさい(大声)


収拾がつかなくなってしまったのでこの問題は闇に葬りたい。
結局どっちも主観だって最初に言ったし。ごめんなさい。でもせっかく書いたので残します。

どうしてこんな風に考えるのか

どちらも主観なら、「私」と「自分」を区別して考える必要なんてないのでは、と自分でも思うことがある。

でも、確実に、2つの間には何かしらの違いがあると思っている。それらを区別するには、言葉を使い分けるという手段しかないのだ。

そんな違いをいつ、どのように感じるのかというと、それは自分の内面に向き合っている時だ。

寝る時に部屋の電気を消して、布団を顔の近くくらいまでかぶって、寝る時の姿勢を整えてからの静かさの中で、私は色々と考え事をする。

今日どんなことがあって、こう感じて、こう思った。だからこうなって、こうなった。

記憶の整理というか、感情の整理というか。ゲームでいうところのセーブだ。
セーブすると、自分の過去の経験と結び付けられるような気がする。ああ、あの時もこんなことがあったなとか、今までにないタフな課題だな、とか。

そんなことをあれこれ考えているうちに、自分の中で勝手に思考が絡まっていく。興味本位で片足を突っ込んだ沼に、ずぶずぶと全て沈んでしまうような、そんな感じだ(今日それをある人に話したら、「鬱になりやすいだろそれは!!」と言われた。そうなんでしょうか…)。

その布団の中で考えたことは、滅多に人に話さない。浅い部分はいくらでも話すし、考えたことに基づいて振舞っているわけだから色々と人からも見える状態にはあるけれど、その一番奥にあるようなものは話さないし、言葉にする力もない。きっとこれは人間なら皆そうだと思っている。

そうなると、他人と何かしらの形で関わっている「私」と、深いところでちまちまと考えを絡ませ合いながら気がついたら溺れている「自分」は、やっぱり違うな、と思う。そしてその違いを大切にしたいのが自分の性なのだと思う。

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だんだん疲れてきたので今日はこの辺りでおしまい。

文章のスタイルを変えてから全然近況報告をするタイミングがなくなってしまったけれど、元気です。冬休みというオアシスまであと約10m(10日)のところまできています。というかもう12月も半分終わってて泣きそうです。
息絶えないように頑張ります。