見出し画像

謙虚な人、そうでない人

やっぱり、謙虚に生きていたいよね、と思う。

それは、自分を下げることで相手を上げるというよりは、同じ目線でいながら思いやりをもつことであり、

たとえ社会的に上の立場に立ったとしても、決して見下すようなことはしないということであり、

一つ他人を巻き込む欲を言えば、誰かを陰ながら支える存在でありたい、ということだ。

私の思う「謙虚でない人」というのは、あからさまにわがままを言うような自己中心的な人物というわけではない。

一見すると謙虚で控えめで人当たりが良いが、どこかで全て自分の思い通りに他人が動いてくれると疑ってかからないような人物だ。

もちろん、周りに期待しないことが生きやすさにつながる一つの選択肢として謳われているこの頃、誰だって周りに期待はしているのだろうけれど(私も例外ではない)、「謙虚でない人」はその度を超えている。
なかなかうまくは言い難いのだけれど、そんな雰囲気をまとっている人を誰もが見たことがあるのではないだろうか。

他人は自分のために何かをしてくれて当然、とか、
彼/彼女の思う人生観・価値観を他人ももっている、とか、
自分の想像力の範囲外のことに対してひどく無関心で否定的、とか。

そんな人と関わっていると、なんだか自分がはみ出しもののような気がしてくる。
はみ出しものならはみ出しものでいいが、その人の言動でそう感じるのは御免だ。



私の目線を上げるのは私であって、私の目線を下げさせるのはあなたではない、と言いたい。
表では同じ目線だ何だと言っていようが、その姿勢が表以外のところでも一貫しているかなんて、案外見透せてしまうものだ、とも。


そして、そんな考え方は謙虚ではないだろうという矛盾をも、もちろん感じている。

最近人と関わる機会といえばアルバイト先なのだが、そこで覚えるのは疎外感に他ならない。
都合のいいように扱われ軽んじられていると言えばそれは誇張かもしれない。しかし、確実にそれに似た違和感を抱いている。

私の考えすぎか、彼が無意識なだけなのか、両方なのか、また別の何かなのかは知らないが、少なくともこの数ヶ月でもううんざりだ。

雇われる側であること、女性であること、寡黙であること、どれが気に入らないのか。
もし一つ目ならば私という労働力は直ちにゼロへ還る。
もし二つ目ならば私は一体どうすればいいんですかね、と捨て台詞を吐いて消える。
もし三つ目ならば、ある意味ではもっとも彼を見下す結果になってしまうかもしれない。そんなことは私もしたくはないけれど。

視点と思考を切り替えて。

謙虚であれば、きっと、誰かの力になりうると思うのだ。

私を励ましてくれる人は、いつだって謙虚だ。

決して彼/彼女の価値観の押し付けなどではなく、目線をこちらにあまり向けないままで、そっと言葉を残して贈ってくれるような。その贈り物には、私だけに宛てられたメッセージが添えられているわけでも、豪華なリボンがかけられているわけでもなく、ただ質素といえば質素な、でも丸みとあたたかみを帯びているような、そんな姿勢。

謙虚な姿勢で私の目の前に現れる人は、そしてそれ以外の場所でも謙虚なのだろうと思わせてくれる人は、本当に有難い。

自分の心の穏やかさのために、あわよくば大切な誰かのために、私もそんな謙虚な存在でありたいものだ。