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自らを由として生きるには。

ふと気になり、「自由」という言葉について考えてみた。

自由という言葉は、「自らを根拠(由)とする」といったように分けることができる。
つまりは、自分の考えたことや自分の選択・決断によって行動することを意味する。

自由という言葉には、いつでも責任という言葉がついてまわる。「物事を自分で決めるのだからその責任だって自分にある」という、ごく当たり前のことのように聞こえるその言葉。
果たして私はどれだけ等身大で理解できているだろうか?

到底及ばぬ不遇だってあるかもしれない。
けれどそれ以上に私は自ら自由を捨ててはいないだろうか。
あるいは、自由を謳歌するばかりで、責任をひっそりと誰かに押し付けてはいないだろうか。

そう考えると、全部自分次第という言葉は自由という言葉とそっくりだ。

この言葉はある人には聞こえがいいかもしれないし、またある人にはそうでないかもしれない。
一時期は自由って最高だ、と思うときもあるし、あまりの自由さに戸惑い進む方向が分からなくなるときもあるかもしれない。

「完全に」なんて言えないけれど、私たちはきっと自由なのだろう。一つひとつの選択が連なった人生を楽しむ余地をもつのも苦しむ余地をもつのも、きっと自由なんだ。
そこには一筋縄ではいかないカラクリがあるのも、分かってはいるけれど。

あるときまで不自由だった人が、そのときを境にして突然自由になったとき、これまで自分が何をしていたのだろう、と虚無感を覚えることがある。

分かりやすいのは、高校から大学に進学した時の例かもしれない。
それまでいろいろ制約を受けて満足できず周囲に口をこぼしていたが、いざ自由を手にしてみれば、本当に自分がやりたかったことはなんだったのだろうと迷ってしまう。そんな話は何度か聞いたことがあるし、実際私も当事者(だった)かもしれない。

同じようなことはそういった若い世代に限らず起こりうるのではないか。
そのくらい、不自由に縛られている間の想像力には限界があるように思える。
それはある種仕方のないことなのかもしれない。自由になって初めて、それがいかに責任のあることなのかを知るのだから。

少し視点を変えてみると、最近「自分軸で生きる」ということが囁かれており(デジャヴ…と思った方、昨日に続いて今日もお会いできて嬉しいです)、これもきっと自由という言葉の本質的な意味に通ずる部分が大きいのではないか、と思うのだ。

私自身もいわゆる他人軸では生きたくはないし、自分の人生は自分の意思で創りたいと思うのだけれど、では果たして自分軸って具体的にどういうことなんだろう、と考えていた。見当もつかなくて、ときには不安にもなる。

こうして改めて考えてみると、自分軸で生きるということは、責任をもって「決断」することであって、それこそが一説によれば「人生の愉しさ」のようだ。

「人生の愉しさ」って、ただ聞いているだけならばいい響きだけれど、手放しでたのしむこととは全く違う。

「自分軸で生きる」と宣言するにせよ、「自由に生きる」と宣言するにせよ、どうやら私にはまだまだ足りないものがたくさんあるみたいだ。