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自分にとって当たり前のものにこそ、ギフトがある。

最近、自分の本来の仕事を進めるのに必要な出会いがあり、詳細はまだここでは書けないのだけれど、とてもありがたく思っている。
それと同時に、自分が持っている情報や知識の重要性、希少性のようなものも見えてきて、ちょっとだけ襟を正す思いというか、もう戻れないところに来ているんだな……と思う。戻りたいのかと言われると、まったく戻りたくはないので、もう進むしかないんだけれどね。

自分にとって当たり前のものにこそ、自分の才能やテーマが潜んでいる。そしてそれは、自分の自我が望んでいるものや想定しているものとは限らない。これは真実だと思う。
自分にとっては当たり前に持っているものが、誰かにとってはお宝級のものだったりする。それをみんなギフトって言うんだろう。自分のギフトを自覚したならば、それを解放していくことが、誰かへの(宇宙への)貢献になるんだろう。それは今後、自分の目で確かめていくしかない。


私は、私の視点や視座がちょっと人とは違っていることを自覚していたけれど、まさかそんなに違うとは思っていなくて、それで何度か失敗してきた。具体的には、私が見ているようには、みんなが物事を見ていないのだということに気がつくのにだいぶ時間がかかってしまった。それで話が通じなくて悔しい思いをしてきたんだけれど、そもそも土台が違うのだと気がつくのに時間がかかってしまった。

別にこれは、私が偉いとか凄いとかそう言う話ではなくて、単に見て来たものや体験してきたもの、生きている目的が人とはちょっと違ったというだけなのだけれど。それをいちいち証明しようという気もないので、少しでもご縁というか波長が合う人が居たらいいかなと思っている。そもそも数年前までは、そんな人誰も居なかったので、数人でも交流できる人が居たらありがたい方だ。

「もういいや、誰も居なくても」そう思えたことが、結果的には自分を強くしてくれたというか、ようやく全ての責任を自分で引き受ける覚悟が出来た時だったんだと思う。誰かが居ても、居なくても、自分は自分として立とう。そういう意識が「自立」ということなんじゃなかろうか。
そして、その意識がなければ、結局なにかをするときに他人のせいにしてしまうんじゃないかと思う。

「親に勧められたから」
「友達がみんなそう言ってたから」
「常識的に考えて」
「普通は」
「みんなが」

そうやって自分の人生を誰かや何かのせいにして生きることは、ある意味では楽だ。思考停止して日々起こるさまざまな出来事をこなしていけば、一生が終わる。ライフイベントを義務的にこなしていくことで、ヒューマン的生活を送ることは出来る。だけど、それは単に表面的なイベントを体験しただけであり、あなたの魂が決めてきた設計には、何ら関係ないのかも知れない。

「もういいや、1人でも」そういう覚悟は自分を自由にしてくれた。別にそれは大した選択ではないのだけれど、誰かとは違う私を恐れないことでもある。
それは、別に誰かと敵対することを意味しない。ただ「違うんだな」と眺めているだけというか、それに対して優劣をつけたり、善悪を判断したりする必要もない。ただの違いとして、それを許容するだけ。

本来、人はそれぞれ全く違う生き物なのだ。なのに何故、派閥を作って群れようとするんだろうか。群れようとするのはヒューマン的な性質なんだと思う。ヒューマノイドはそれぞれ出身も違うし、目的も違うのに、どうして群れようとするんだろうか。もちろん、同じグループとか出身が近いというのはあるけれど、それでも、詳細な目的や能力は違うはずなのだ。全く同じ存在なんていない。だから、比較して優劣をつけることや、違いを攻撃すること愚かなことなのに、地上ではそれがなかなかなくならない。
違うことこそが世界の面白さであり、細かな違いを感じ取れることこそが、わざわざ人型を取って地上で暮らしていることの最大の豊かさなんじゃないだろうか。

ヒューマノイドは、自分がどれほど人と違っていても、それを恐れないで欲しい。その違いは恐らくギフトであるし、今までは単に擬態していただけなのだから。その擬態を意識的に外していくことで、きっと誰とも異なるあなた自身に出逢えるだろう。それは自らの無限性を取り戻していくことだよ。


普段は、こんなことを考えているなんておくびにも出さずに社会人生活を送っているのだけれど、案外そういうヒューマノイドは多いんじゃないかなと思うので書きました。こんなことばかり考えながら暮らしている人も居るってことで。




最近書いている創作のお話


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