世論と新聞

※過去に当サークルのHPで公開された記事です。
(公開日:2018.3.7 執筆者:松本)

前回はそもそも世論とは何かという話をしました。そして、次回以降の振りとして、メディアと世論の関係をちょっとだけ話したと思います。では今回は実際に「世論」と「メディア」を結び付けていきましょう。結びつけますが、今回は現在の結びつきでは無く、過去の結びつきの話です。

 そもそも世論の概念が生まれたのは17世紀のイギリスです。コーヒーハウスが登場し、様々な身分の人がそこに集まって、情報収集や討論が交わされていました。それまで政治は貴族や王族の物だったのですが、17世紀に入り、市民革命の萌芽が出始めました。その過程においてコーヒーハウスは重要な役割を担っています。

 そもそもコーヒーハウスがどんな場所だったかと言うと、コーヒーやチョコレートなどの嗜好品を楽しみながら世間話などをする社交場でした。今でいう喫茶店ですね。人々はそこで熱い議論を交わしたりしていました。

 そこで次第に形成されたのが、世論です。コーヒーハウスで適当に集まって、その辺のオヤジたちが今について激論を交わす。そうしていきながら世論は生まれていきました。

 そして、もう一つ世論の形成に重要な役割を担ったのが新聞です。イギリスでは17世紀から市民革命が起きたりしていたので、あらゆる人々に情報を伝達できる新聞が発展していきました。そしてその新聞はコーヒーハウスに置かれるようになります。こうしてイギリス(特にロンドン)に住む一般市民はコーヒーハウスという社交場と新聞という情報収集の手段を手に入れたのです。

 他のヨーロッパの諸国も似たような経過を辿っています。絶対王政の時代から市民革命の時代に移り変わる過程で世論は形成されていきました。世論の形成時期自体は国によってまちまちですが。

では日本の話をしましょう。これまでイギリスの話をしてきましたが、そうはいっても遠く離れた異国の話です。確かに初めに世論が形成されたのはイギリスです。しかし、そんなイギリスの話を長々とされてもピンとこない人が多いでしょう。ですので次は日本の世論の形成の話をしていきます。

 まず、日本に近代的な新聞の文化が生まれたのは幕末です。オランダ語の新聞の和訳である『官板バタビヤ新聞』が1862年に刊行されます。それが日本で最初の新聞になります。その後明治時代に入り、文明開化が進むと日本国内でも新聞の発行が始まります。明治政府も当初は新聞を平民の啓蒙道具として重用していたのですが、徐々にその扱いは変わっていきます。

 その転機が自由民権運動です。これにより日本の新聞も政府よりから民間よりに変わっていきます。政府もこの変化を見て徐々に新聞の言論を統制していくようになります。その結果、戦前戦中にかけて新聞は政府のプロパガンダ道具の一つになりました。今では信じられないかもしれませんが、朝日も毎日も読売も国民の戦意向上に努めていました。

 そして戦争が終わり、新聞も変わります。といっても基本的な要素は100年間でほとんど変わっていません。変わった事と言えば、新聞社とテレビ局が仲良くなったことぐらいでしょうか。とまあ、日本の新聞の歴史はざっとこんなもんです。

 こう見ると日本の新聞は一見平民との関わりが薄いように見えます。どちらかと言うと日本の新聞は政府との絡みが多いです。勿論、そこで働く人は一般市民ですが、新聞社という存在の動きは非常に政治的です。しかし、それは表面的にものを見た時です。確かに、日本はイギリスのようなコーヒーハウスは普及しませんでした。何故なら、日本が文明化した時にはイギリスではもうオワコンになっていたからです。

ではどのように日本は世論を作り上げたのでしょうか。この問いに関して、僕も答えは持ち合わせていません。しかし一つ言えるのは、世論が形成されるというのは大衆が政治に関心を持った結果です。ですので、政治が多くの人にとってある程度身近になった瞬間に世論の形成が行われたと考えています。ここはまた検証するべき事項ですね。また調べてみます。

今回はこのあたりにします。とりあえず言いたかったのは世論が作られたのは意外に最近だという事です。

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