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人々が対話できる場所

人々が対話できる場所や機会はどんな形をしているのだろうか。
今朝、友人と話していてそんなことを考えていた。
私は世界をより良く、そして住みやすくしていくための努力や動きにはもちろん賛成だしとても重要だと思っているしそれは(一応)民主主義である以上私たちの権利であり義務でもある。大学でも社会学や原住民のマオリ族の人たちの植民地化の歴史を学ぶことで社会的システムに立ち向かっていくことがいかに今必要かを痛感している。

でも同時にそんな動きの世界って実は結構入りにくかったりする。
私自身もそうでなかなかそれらのコミュニティに入って行動したり声を上げたりということができなかったりする。人に会うのも怖くて不定期で気持ちのコントロールがきかなくなってうまく周りとの距離が取れない人間にとってめぐるましく変わっていく世界情勢にとてもじゃないけど頭と心が追いつかない。それでも社会システムの再構築へ向けた運動は休みなく動き続ける。それは差別や社会問題というものが長い間積み重なってきたように時間がと共に増えていく。秩序から無秩序へなのか。私が世界を閉め出している間に社会はどんどん進んでいく。また戻ってこようとするともっと複雑な問題が出現していてもっとわからないことが増えていてもっとどうしようもないのかもしれないっていう絶望に襲われる。そんな無力感を体験する人も最近多いんじゃないかなと(勝手に)思っている。

インターネットからたくさん情報が得られるのと同時に私たちには選択という贅沢な「権利」が与えられた。私たちはアクセスできる情報が増えたと共にそれらの波に飲み込まれないように物事を取捨選択するようになった。それは同時にある特定のもテーマや物事には無関心でいられるという恐ろしい世界でもある。地球の反対側である少数民族が虐殺されていても見て見ぬふりをしていられる。どこかで起こっている問題はどこかの誰かのもので私とは関係ない。私の世界はいつも通りだ。通常運転だ、と信じることができる。確かにそうかもしれない。でもそうではないのだ。いずれそれらの出来事は私たちの世界の現実に回帰する。隣の街で起こっている暴力は、叫び声は同じ世界に確かに存在している。それはいつかここに戻ってくる。その時に私たちは今まで通りに無視することができるのだろうか。

そんなことを思った時にまず私があったらいいなと思ったのが「気軽に」話せる場所、機会、カジュアルさだ。それは昨日の夕飯について話すみたいに。芸能人の結婚について誰かと興奮気味に話すみたいな普通さでいい。もっと小さく、もっとフワッとでいいから今世界でこんなことがあってね、私たちの街で、コミュニティでこんなことできたらいいよね。もう少しこんなことあってもいいよねっていう小さな問題提起と提案とアイディアから。それがもっと簡単で普通になってほしい。アニメや芸能人らがバラエティやそれぞれのソーシャルメディアで世界ではこんなことがあってさこう思ったんだよね、こんなこと調べたんだよね、こんなこと読んだんだよねっていうすごく小さなことでいい。誰かがもう少しカジュアルにもっと大きなことに話してもいいんじゃないかなって。

まずははじめてみないとわからないじゃない?
話してみないと。聞いてみないと。そしてそこから考えてみないと。
わからないよ?世界は変えられるかもよ?

mugiho


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