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姉さんとの最後の仕事

そのお泊まりして帰った日、姉さんから「これからのこと本当に頼みたい」とLINEが入りました。心配だったら、行政書士などの士業の方に頼んだ方がいいのでは、言っていたのですが、そこまでではないし、できれば私に頼みたいとのことでした。私にどこまでできるのか、何ができるのか、わかりませんでしたが、姉さんの最期のお願いでしたし、姉さんと一緒に何かができる最期の機会だと思って引き受けました。

トップの写真はその3日後くらいに行った茅の輪くぐり。コロナ退散と同時に姉さんのことも強く願いました。

そこから毎週のように片道1時間半から2時間かけて姉さんの家を訪れました。

まずは姉さんの遺産についての書類作りから。この時、姉さんは目に腫瘍ができていて、視界も狭まっていたので、基本的には私が作成してチェックを姉さんやご家族にしてもらう形で。

そしてなるべく諸手続きがスムーズに進むようにと、子どもさんたちには、印鑑登録など済ませているかどうかなどの確認もしました。

また、葬儀について。姉さんとしては、家族葬で地味に、と言っていました。が、姉さんの人柄を考えると絶対最期にお別れしたい人たちがたくさんいるはずだから、金銭的にできるのであればちゃんとしたほうがいいのでは、と提案して、受け入れてもらいました。

取り急ぎ最寄りの葬儀社のパンフレットを私が取り寄せて、姉さんの家に持参しました。それを見ていた姉さんは、これだけではわからんし、一回行こうか、と言い出しました。「え、あんた歩くこともままならんやん!」ていう状態の時にです笑ということで、引き止めて、葬儀社の方に自宅に来ていただきました。そしてそのばで祭壇、花、規模感などを一緒に決め、大体の見積書をいただきました。

葬儀では、結婚パーティーのドレスを着て、メイクは誰にしてもらって、なんていうことも相談しました。

こんなやりとりしている時には、「姉さんの葬儀」ということを深く考えさえしなければ、姉さんと、あ、うんの呼吸で仕事をしているような感覚でした。それがとても心地よく、一緒に仕事をしている感覚が罰当たりにも、嬉しかったです。

ですが一息ついたときに、「こうして色々やっている時はいいんやけど、ふとしたときにやっぱり死ぬのは怖いよな」と姉さんがもらしました。

本当に「何気」に言ったんです。

それでもその「何気」の重さが身に染みました。弱音をちょっとしたことでは吐かない姉さんがこんなふうに「怖い」ということの重さ。多分、自分がいなくなること、そしていなくなった後のみんなのこと、いろんなことが怖かったのだと思うと、もう少しだけ時間が欲しいと欲張らずにはいれませんでした。

そうして毎週通う中、姉さんは毎週少しずつ、できないことが増えていき、少しずつ自宅に介護用の道具が増えていきました。

姉さんはかなり辛かったと思います。
「私はどこまで頑張ったらいいのか、わからん」とずっと言っていました。あまりに甘えてしまうと筋力の衰えなども進行するであろうし、どこまで甘え、どこまで頑張れば自分の身体にとってベストなのか。

いつも「大丈夫」となんでもこなしていた姉さんの葛藤が切なかったです。

それでも亡くなる2週間前にもこんなLINEが来ていました。

自分がいなくなっても人のためにい続けたい、という意味です。

ちょうどこの時、ハケンの品格2がスタートしていました。私たちが同僚だった頃のドラマの続編。

偶然ですが必然だと思いたいです。

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