「専門性」の境界線。

柏木むつき

こちらのブログでも書いていることを、noteでもう少し詳しく書いてみたいと思う。

「養護教諭の専門性」って?

「養護教諭の専門性」。

「養護教諭の「養護」とは何か」。

業界にいれば何度も聞くこの言葉。

実際、勤務していた時の研究会のテーマはこのようなものが多かった。


大学院に入ってある程度理解できたことは、

養護教諭の「養護」の内実を問う研究は、

いまだに「これ」といった正解(というもの)はないということ

(研究者の中にはきっと色々と考えるところはあると思うが)。

そして「養護」という言葉が教育の世界に出てきたのはヘルバルトだとか、

「養護」の思想とは何なのか…という視点での話は、

今回の記事ではそういうことは割愛したい

(書き出すと本当に長くなってしまう)。


私自身が養護教諭として働いている間は

冒頭の問いに対して「答えが出ずにもがいていた」のだが、

今はこのこと自体の答えが出ずにもがくことはすっかりなくなった。

それは、

「専門性を定義しようとすればするほど、

本当は求めているものがどんどん見えなくなってしまう。

定義することで、

そこからこぼれてしまうものの中に大切なものがあるかもしれない。」

そんな考えに至ったからだ。

今は、そういう視点からの研究をしている…のだと思う(思いたい)。

「専門性」の「中」と「外」


世の中にはたくさんの「専門」があって成り立っている。

そしてそこに従事する人たちの活躍がある。

「専門性」とか「専門家」とか「専門職」とか、

きっとそういう言葉でくくられる領域。

もちろん、「専門」があることは大事だ。

何らかのスペシャリストがいることで、

それ以外の人が救われるし、そうやって世の中が回っている。

何らかの「専門」があることで、やりがいを見出し、

生き甲斐を感じ、使命感を抱くこともあるだろう。

(「専門がない」から生き甲斐がない…ということとは決して違う、

ということだけ述べて、今回はそこは外しておきたい。

また別の機会に…。)


私は「専門」という領域やそこに従事する人たちのことを

全く否定もしないし反対もしていない。

その上で考えることを私自身が感じてきたことも含めて

述べるのだとすれば。


「専門性」という垣根によって、

その境界線の「中」と「外」に距離ができすぎてしまうこと。


それによって、
「中」の考え方が、

「中」であり続けるために、

「中」としての価値を保持するために、

本当は「外」の人にも開放できるものでさえも、

独占的になってしまう側面もなきにしもあらず…そう思うことがあるのだ。


それだけでなく、

そういった「中」のスタンスによって

(それは無自覚に無意識に、という面もあると思う)

「外」にいる人たちが、

「中」にあるものに対して興味を抱かなくなったり、

「中」にあるものを「自分事」として受け止めなくなったり…。


結果として、

更なる「中」と「外」の垣根が高くなってしまい、

結局「中」と「外」の分断が起きてしまうのではないだろうか、

と思うのだ。


それは「中」の人にとって、

回りまわって「「中」の課題」として突きつけられる気がする。

それって本末転倒ではないだろうか。


「専門性」とは、

それを持つ(とされる)人と持たない(とされる人)の

架橋となるものではなかったか。

その境界線は果たして色濃く線引きし分断する必要はあるのだろうか。

「開放する専門性」へ向かって


「中」の世界で握りしめて独占する「専門性」が

「閉鎖する専門性」ならば、

その逆は「開放する専門性」なのかもしれない。

そしてそれは、「中」の「専門性」が薄まるのではなく、

「外」との垣根が低くなることで、

「中」の「専門性」はより濃くなるのではないか、と私は考えている。

それは、「専門性」の肩書きを超えた「人」として濃さ。

そんな感じ(うまく表現できていないかもしれないけれど)。


その「開放」は、

やがて「専門性」の「中」にいる人たちを「解放」するものになる

と私は信じている。

境界線は曖昧で良いし、境界線の真ん中で往還する人がいたって良い。

「養護」とは、すでに在るもの。

冒頭の「問い」に立ち返って現時点での私なりの見解を述べるのであれば、

「養護」とはすでに在るもの。

だからあえて「見えるカタチ」で定義する必要はないのではないか。

ということ。

矛盾しているかも、と思われるかもしれないが、

だからこそ、

その周縁にある「養護」となりうるものを私は今一度、整理したい。

それが私の研究対象でもある。


いつか自分の研究を実践(現場)に還元したい、と私は考えている。

それも直接自分の研究内容が還元されるというよりも、

もっとソフトな面に対して。

たとえば、

「養護」の定義があるがゆえに、

悩んでしまい「自分」を否定してしまう養護教諭や、

養護教諭の「専門性」に固執するあまり、

「自分」を見失ってしまいそうになっている養護教諭に、

「あなたは既に“養護教諭”だからね」

と、今よりももっと想いを込めて伝えたいのだ。

そのための「土台」として、私の研究対象を位置づけたい。

「在る」とは見えるものだけではない

目に見えるものだけを「在る」ものとしてしまうのではなく、

目には見えないけれど「在る」ものに目を向けたとき。

その時、何かの言葉で定義されたものと、

定義されたもの以外の「境界線」で何があらわれるのか。

きっとそこに肩書きや専門性を超えた、

「自分」を解放するヒントがあるのだと思うから。



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