セックスと現実

 周期的に、性的なことばかり考えてしまう時期がある。生理周期や精神状態と関係があるような気がして、前に三カ月ほど記録を付けたが、あまりはっきりと分かるような結果は出なかった。

 別に体が疼くわけでもないし、特定の男性の姿ばかり思い浮かべてしまうわけでもない。ただ勉強や読書の合間、食事中や用を足している時など、セックスのことを考えてしまう。
 何も、自分が実際にそういうことをする想像ではなく、セックス一般について考え込む。昔見た映画のセックスシーンや、セックスシーンが全く描かれていない少女漫画の完結後の世界の想像。考えたくはないが、自然に想起してしまうことは、両親の情事について。たしかに私は、その結果として産まれたのだから、考えずにはいられない。
 想像できないわけではない。でも、どこか歪で、気持ちが悪い。なぜそう感じるのかは分からないけれど、身近な人同士が性的行為に及んでいる姿を想像するのは、胸に何か嫌なものを残す。
 そういえばこの感覚は、中学時代、年上の彼氏とはじめてセックスをしてきたと嬉々として周りに言いふらしていた子を見たときの感覚に似ている。
 その時は「なんでこんなに軽薄なんだろう」「恥ずかしくないのかな」等と、その子に対する反感を持ったが、今思えばそれは「現実が崩れている感覚」に原因があったのだと思う。
 自分が無自覚に信じていたものを、壊される感覚。

 そう考えると、私の文章はきっと、少なからず多くの人にそのような感覚を与えるのではないかと思う。
 大人になるまで性行為は控える。したとしても、それを人に自慢せず、恥ずかしいものとして隠しておく。それがあの時の私にとっての「性」であったのに、彼女はそれを無自覚に、無邪気に、正面から破壊した。
 中学生にもなれば、セックスができる。それは悪い事じゃないし、結構気持ちのいいことなのだと、彼女はそう主張した。皆もすればいいと、そう言った。
 私はそれについて深く考えることを余儀なくされたし、確かにそれは不快感の伴うことだった。

 しかし、いつかは避けては通れぬことであり、その子には一切の罪がない。それについて不快だと思ったのは、むしろ現実に即さない性認識をしていた私の問題であり、私より体験的にセックスのことを知っていた彼女の方が、セックスに関していえば、正しいはずなのだ。

 同じように、私の主張することによって、不快に感じてしまう人がいることは、その人自身の問題なのであって、私の問題ではない。それはいつか考えなくてはならない問題であり、早いか遅いかの問題でしかない。

 生き死にの問題と、性にまつわる問題は少し似ている。どちらも人生で関係せずにはいられない問題であり、全ての人間に与えられた根本的な課題でもある。

 子供を作るか、作らないか。どのように生きて、どのように死ぬか。

 現代人は、性と死に関して、タブーとして扱おうとしたが、それは無理な話だった。その両方は、人類の歴史上、常に最重要とされてきた問題であり、私たちはそれを意識せずにいられない。

 与えられた固定観念を持ってしまうのは仕方がない。それは確かに「現実」の一形式だ。
 しかし、いつかは誰かがその「ねつ造された現実」を、容赦なくぶち壊していく。「現実の現実」によって、信じ込んでいるものは粉々にされてしまう。
 そして私たちは、受け入れなくてはならない。

 「現実」のあの感じを。

 奇妙で複雑で、それでも案外悪くない「現実」を、受け入れなくてはならない。

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