自分の欲望を現行犯逮捕すること

 ものごころついたころから自然にやっていることだったから、皆もそうだと勝手に思い込んでいたことがひとつある。

 それは、自分の欲望を現行犯逮捕することだ。

 たとえば、私が誰かに衝動的にこういうことを言いたくなったとする。
「あなたはいつも自分勝手だ」
 私はそれを口に出す前に、なぜ自分がそういうことを言いたくなったのかを分析する。まず第一として、自分が相手に対して「あなたはいつも自分勝手だ」と言いたくなったということを、記憶するのである。
 思っただけのことを、「思ったという事実」として取り扱うのである。
 たとえそれが行動に結びつかず、だれも気づかないとしても、自分だけは気づいたのだから、しっかり逮捕して、尋問するのだ。

「私は、彼女が身勝手な人間であることを最初から分かっていたはずだ。なぜわざわざそれを、本人に、この瞬間言う必要があったのか?」
 最終的な答えが、自分にとって都合の悪いものであることも珍しくない。
「つまり私は、彼女の行動を制限したかった、というわけだ。彼女の身勝手さが許せなかっただけでなく、彼女の行動を自分の都合のいいようにコントロールしたかった、ということである。同時に、自分自身が他者より優位な発言をできるタイミングであると無意識的に判断していたわけだ」と。

 人を咎めたり、悪く言ったりすることには(場合によって褒めるときでも)自分自身の無意識的な欲望が隠れていることは多々ある。それを見つけて自覚するには、現行犯として逮捕するのが一番いい。

「なぜ私は先ほど、あの人に対して反感を抱いたのか」
「なぜ私は、無意識的に拳を強く握っていたのか。しかもそれに、長い間気づかなかったのか」
 自分の体というものは、自分の意識ではほとんどコントロールできず、感情も欲望も、ほとんど自覚されていないものである。

 私の母のことなのだが、顔を真っ赤にして父に怒鳴り散らしているときに「なんでそんなに怒ってるの?」と尋ねると、急に声を抑えて「怒ってないよ?」と返答してくる。彼女は、自分が怒っていることに気づかないし、怒っていると指摘された時点で、怒っていることを忘れてごまかそうとし始めるのだ。しかも、自分にそういう傾向があることをまず自覚していない。

 そして、このようなことはかなりの割合の人間に見られることである。周りの人間からは明らかであったりする、本人の身体的反応や感情、欲望が、当人自身はまったく意識も自覚もせず、無邪気にも自分は常に一定の意識状態にあると思い込んでいる場合が多々あるのだ。


 私は別に、自覚せよ、意識せよ、と言うつもりはない。
 よく心理学者は無条件的に「自覚することが改善の第一歩です」と無邪気に説明するが、それは心理学者特有の自己肯定的独断である。
 というのも心理学者自身が、かなり自身および他の人間の感情や欲望に対して自覚的な生き物であるから、自分自身の生き方、進んできた道を肯定するために、当然のようにそれが正しく、健康的な方法であると主張せざるをえないからである。実際にそれが、人間が心理的に健康を取り戻す役に立つかと言われると、私自身の立場からすると、疑問である。どちらともいえない。

 自分自身の短所や欠点、心理的な傾向、脆弱な部分は、場合によっては自覚しない方がいいこともあると思う。
 知ることや頭がよくなることが、無条件的に「人間の体に良い」とするのは、やはり独断であると私には思える。

 場合によっては、知らないままでいた方がいい場合や状況も多々あると思われる。


 私が言いたいことがあるとすると、他者のそういう単純な心理的な傾向を見ても、腹を立てず、笑って楽しんでいよう、ということくらいかな。
 そういうのにいちいち自分も反応して、つまらない言い合いに終始するのは、何というか、品がないような気がするんだよね。

 自分も含めて、人間に対しては、大目に見よう。(まるで人間以上に優れたものが存在するみたいな言い方。でもそうじゃないと、疲れちゃうよ)
(自分の低劣な欲望も、逮捕尋問のあとはちゃんと釈放してあげようね)

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