たくさんのなやみ たくさんのつぶやき
他者を尊重する人間ほど、他者を尊重しない人間を尊重しない
ルールを守らない人間は、ルールから守られることもない。誰かを殴った人間は、他の人間から殴られたとき、周りの人間はそれを見過ごす。
ということばかりではないけれど、人間にはそういう傾向があるというのは確からしい。そうしたいと思うのは確からしい。
定められたルールさえ守っていれば、あとは欲望のまま生きることが是とされる社会。私は、この汚らしい社会をどうすればいいのか分からない。新しいルールを作ったって無意味だ。それで人の心が綺麗になるわけではないから。
自然状態の人間がいかに醜いか……
欲望と欲望は時に矛盾する。勝利するのは、より力を持った方だ。正義など何の役にも立たない。
優しさや慈悲によって救われた悪人がまた別の罪を犯したとき、その優しさや慈悲は、優しさや慈悲という名前のまま呼ばれていてもいいのだろうか。
優しくしてほしい時に冷たくされたことを根に持って恨むことは不当なのだろうか。
「助けて」と叫んでいる人を助けるのが嫌だから、忙しいふりをする。忙しいふりをするのも嫌だから、実際に忙しくする。そういうことは、どのような理由があれば正当化されるのだろうか。
世の中をよくしようと考えれば考えるほど、自分自身と周囲の首を絞める結果にしかならないような気がする。私たちは善人でもなければ、善人を愛することもできないから。
自分が救い難い人間であることに気づいたとき、周りの人間もまた救い難い人間ばかりであることにも気が付いた。そしてその事実は私を安心させたのではなく、絶望させた。彼らが愚かであればあるほど、私が誰かから救われる望みはどんどん薄くなるのだから。
救われたつもりになっている人間の感謝ほど薄っぺらいものはない。
「そんなことより」と言いながら私ではなく別の友達に話しかけた彼女は、私に対して悪意を抱いていなかったが、私はそれを呪った。
同時に、私はかつて泣いている人間に対して「そんなことで泣かないで」と言ったことを思い出し、己を呪った。
どれだけ後悔しても同じことを繰り返してしまうようなことがある。私たちはそれをあの手この手で正当化しようとする。そしていつかそれに成功し、「納得」などと呼ぶ。その納得は、正当なものだと私たちは思えるのだろうか。
捨てたはずの悩みを拾いなおしたとき、自分の幼稚さが明らかになる。こんなくだらなくてつまらないことで本気で悩むなんて、と思いながら、同時に、こんなくだらなくてつまらないこと以下の人生を今まで歩んできたことが露呈している。当然、そのことにも気づいている。
自分や周囲を生かすために体を動かしている人間は、悩んでいる人間を「昔は俺にもそういう時代があった」と馬鹿にする。彼らは、口にはしないが、このように思っている。「最終的な解は、『考えないこと』だ」と。「最終的な解は、『目の前のやるべきことをやること』だ」と。
彼らの言い分は正しい。同時に、彼らのような人間は千年前にも千年後にも存在し、その価値は変わらない。彼らの人生には一定の価値があり、私たちはそれを認めることしかできない。同時に、その価値が私たち自身のものと等しいということは、どうしても認めることができない。
何も考えず生きる方が幸せだということは分かっていても、それでも考え続ける理由は、どれだけ探しても見つからないし、探そうとすること自体が考えることなのだ。私たちはいつも自分を正当化しようとして、その正当化の仕組み自体の正しさに疑問を抱く。
私たちの問は「私たちは何のために生きているのだろうか」ではない。「私たちは生きていてもいい存在なのだろうか?」なのだ。「私たちの生き方はこの生き方であっているのだろうか?」なのだ。
罪の意識を意識的に捨てようとしても「罪を意識的に捨ててしまった」という罪の意識が新しく芽生えてくる。罪が赦されるためには、自分より力を持った他者の存在を必要とするが、誰よりも精神の力が強い人間は、自分以外の他者の赦しを戯言としてはねのけてしまう。ゆえに彼を救える存在があるとすると、それは唯一絶対である神でなくてはならない。しかし神は死んだ。私たちはもはや赦されないのだ。赦されえないのだ。
恥の感情を持つ人間は、恥の感情を持たない人間を軽蔑しつつ、同時に、少し羨ましいと思っている。
私たちは恥ずかしい思いをしたくないと思うせいで多くの機会を逸する。だが、恥ずかしい思いをしたくないと思ったおかげで多くの失敗を免れてもいる。私たちは、打算というものが私たちの人生を小さくしているのだと内心気づいてはいるが、打算の結果、人生は小さい方が得だと結論するのだ。
高い共感性を持つ人間は、高い共感性を持たない人間を軽蔑しつつ、同時に、少し羨ましいと思っている。
私たちは人の苦しんでいる姿を見てもなんとも思わない人間に時々強く憧れる。私たちは私たちの共感性に強く縛られていることを知っているし、その共感性のせいでひどく苦しめられているのも知っている。打算と同様に、私たちの共感性は私たちの人生を小さくしている。だが共感性は打算とは違い、大きくなろうと欲する。より多くのものに共感しようと欲する。そして何よりも……共感性は、打算を否定する。大きな共感性は己が得をすることや、長く生きようとすることを否定する。
恥は人を休ませて長生きさせるが、共感性は人を疲れさせ、早死にさせる。
なぜか、最も偉大な人々は、恥と共感性の両方を高度な形で備えていた。
私たち人間は普通、自分たちの命が脅かされるときもっとも強く怒り、憎む。
反面、そのようなときに落ち着いて対処できる人間がいる。そして、そういうタイプの人間がもっとも人から恐れられる。彼は、死ぬことよりも危険なことを知っている。彼は、殺されることよりも腹が立つことを知っている。彼にとって「殺されるかもしれない」は、怒りをもたらすのに不十分なのだ。
人は自分が感じたことのないほど大きな悲しみや怒りを想像することができない。ゆえに、他に誰も感じたことがないであろうほどの大きく、長く続く感情を抱いたことのある人間は、必然的に孤独になる。
もっとも慰めを必要としている人間、つまり深く深く傷ついた人間は、誰からも慰められないことが多い。
たとえ慰めにならないとわかっていても、その人に寄り添おうとする友や恋人がいた人は幸いである。普通、そういうことはない。ひとりで耐え、ひとりで立ち上がり、ひとりで進むしかない。人生は残酷なのだ。
壮絶な人生は、また別の壮絶な人生を理解することはできないが、理解できないということと、互いに対等であるということは感じ取り、尊重することができる。本来、人間関係に必要なのはそれだけであり、実のところ、壮絶な人生を歩んでいる必要もないのだ。
緩い人生を歩んできた者同士が互いに理解し合ったと思い込み、それ以外の人間と距離を取ろうとするから、人間関係は歪むのである。
私は時々、誰もが死を強く望むほどの不幸を味わうべきだと思う。そうすれば、幸福な人が不幸な人をより不幸にすることもなくなるのではないかと思うのだ。
しかしそれは、私が人間を過剰評価しているから起こる誤解であろう。おそらく、私が直感的に感じているよりも、人間は醜く愚かである。
人は「人間は」と言うとき、まずその代表者を自分自身にする。だからその人間が、人間のことを無意識的にどのような生き物かと思っているかで、その人自身の生き方や考え方が示される。
すなわち、人間というものを無意識的に高く評価し、期待している人間ほど、その人自身がその高い評価や期待に相応しい人間であると考えられる。
逆に、人間というものを低いものとして見ている人間は、その人間がどれだけ偉そうに、立派な言葉を並べたところで、彼自身の「人間性」に対するハードルが低いので、彼自身の低劣な部分は低劣なままであると考えらえる。
綺麗な人は汚いものに触れたがらない。自分が汚いことに気が付いている人は綺麗なものに触れたがらない。自分のことを汚いと気づくことすらできない人間は、べたべたと何にでも触れたがる。汚いものに触れた手は汚れる。綺麗であるためには、汚いものを避けるか、触ってもすぐに清潔なもので洗い流していなくてはならない。
誰かの利益を守るために、自分の利益を投げうたねばならない場面が、生きていると必ず生じてくる。しばしば人はその選択が、今後の自分の人生を決めることになることを直感する。いや、直感できなかった人間は、そもそもそれを選択だと思わなかった人間であり……すでに信念を持った人間か、信念を持つ可能性すらない人間かのどちらかである。
自分にとって価値のないもので喜ぶ人間に、利益をもたらそうとすることは矛盾である。宝石に興味のない人間が、宝石を好む人間に宝石を贈るとき、その人間は彼に利益を与えようとしているのではなく、単に彼を喜ばせてやりたいだけである。
宝石を美しいと思わない宝石商は、自分にとって価値のないものに大金を払わせようとする。だが彼もまた、人を喜ばせているという意味では……
自分にとって価値のあるものを贈って、それが相手にとって価値がないのだと分かったときほど残念なことはない。人はそういうことがあったとき、贈り物をするのをやめるか、また別の贈り物をするか、という選択に迫られる。きっとそれもまた、その人間の今後の人生を左右する選択であると思う。
道徳の問題は基本的に己自身の問題である。と同時に、己自身の問題は、ほとんどの場合において、他者との関係性の問題でもある。
一日の大半を遊んで過ごし、残った時間を全力で苦悩する人間。
一日の大半を働いて過ごし、残った時間を全力で遊ぼうとする人間。
健康的で好ましいのは後者だが……賢くなるのは必ず前者である。それもまた、ひとつの苦悩の原因となる。
苦悩ほど人の精神を明るくするものはない。苦悩すればするほど、あらゆる現実的な衝撃に対し、快活に対処することができる。
苦悩の最大の原因は退屈である。苦悩が人を成長させるのならば、退屈が人を成長させる、というのも間違いではあるまい。
理解していない人間の「そんなことで」と、理解している人間の「そんなことで」の間には、明確な差がある。それは、言葉の差ではなく、体の差である。
言葉だけで人を救おうとすること自体が、ひとつの誤りなのだ。人を救うのは、言葉ではなく、差し伸べられた手である。
手を差し伸べてくれないのなら、せめて一緒に悩んで欲しかったのだ。
抱きしめてくれないのなら、せめて同じ苦しみを味わって欲しかったのだ。
私の精神に宿る最大の矛盾は、私は誰からも救われなかった自分自身を肯定しているのに、「誰からも救われないこと」という現象が他者に引き起こされることを肯定することができないという点だ。
私は自分が見捨てられたからといって、それが、他者が見捨てられていい理由になるとは思えないのだ。
しかし……悲しいことに、誰かから助けてもらった経験を持つ人は、誰からも助けてもらえなかった人のことを無視する。理解できないもの、かわいそうなものとして、離れたところから同情することしかしない。
つまるところ、私が誰かを救ったとしても、その救われた人が私を救うことはありえないのだ。いやもっと言えば、その人は「救われなかったかもしれない自分自身」という可能性を否定するしかないから、その先にいる私をも、否定するしかないのだ。
人は誰かが救われなかった時、その理由を、まず最初にその人自身に探そうとする。特に、誰かから助けてもらった人ほど、助けられなかった人間のことを、どこか見えない部分に元々問題があった人間だと思おうとする。もちろん人間というのは基本的に問題だらけの生き物だから、それは正しい。でもそれが、助けられたあなたに問題がなかったことを示す理由にはならない。
私の嫉妬は人を傷つけず、自分自身を蝕むのみである。
私は幸せそうな人を見るのが好きだけれど、ギャンブルに勝ったり、宝くじに当たったりして喜んでいる人間のことを幸せな人だとは思わない。実のところ、社会的に成功して人から賞賛を得ている人のことも、自分好みの異性を手に入れて欲望を満たしている人のことも、私は幸せだとは思っていない。
私はそういう人には嫉妬しない。そういうものを、価値あるものだとどうしても思えないからだ。
私は誰かに対して心から感謝している人間に嫉妬する。その人のおかげで今の自分がある、ということを言う人に、私は嫉妬する。そういう人は、本当の意味で幸せな人だと思う。ずっと、幸せなままでいて欲しいと思う反面、私自身がそうでないという現実が、私を苦しめる。
「複雑に絡み合った問題」という言葉自体が、どこかありふれていて単純なニュアンスを含んでいる。私は私自身の問題を、他者からそのように表現されることが我慢ならない。私は私の問題に簡単に触られるくらいなら、そもそも腫れ物扱いされている方がマシだと思うのだ。
私は時々、誰かが私の止まった心臓を再び動かしてくれないものかと、人任せな欲望を抱く。私は、頑張っていたいのに、もう自分一人の力では立ち上がれなくなっている。助けを必要としているのに、助けなしで立ち上がらなくてはならないと思い込んだまま、何もできず朽ちていくような未来が私の目に浮かぶ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?