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祭りの後

また来年見られますようにとお願いし、御礼を述べつつ終わる寂しさをつらつらと(まだ神事は残っております)


午後いちばんでおつかいを頼まれたので出かける

朝から撤収作業をされていた鷹山、最後にクレーン車が出ていくところに遭遇

お疲れ様でした、また来年あの美しく堂々たる姿を見ることができますようにと、心のなかで敬礼し送り出す

関係者ではないし、たまたま通りがかっただけの近所のものです

古い木材に放下鉾と書かれている
車は菊水鉾のお下がり
こうやって受け継がれているんですね
こちらは八幡山の撤収
私の後ろには他の荷物の積まれたトラックもある

何か楽しいことや面白いことが始まるとき、いつもその終わりを気にしてしまう

早々と7月1日から頭の片隅には『1ヶ月で終わってしまうのか』という気持ちがあった

悔いなく味わい尽くそうと結構堪能したしまだ終わってないけれど、やはり寂しい気持ちはどんどん湧き出す

28日の神輿洗いも行けるかわからないのでさらに寂しい

なので『終わるのは寂しい』とはっきり書きつけておく

一度湧き上がった気持ちを抑えつけると消化できなくなって思いの外膨れ上がって手につけられなくなるので、書いておく

大好きな従兄弟の家にお泊りの時はいつ帰らないといけないかばかり気にしたし、友だちと遊びに行っても『あと何分あと何分』と、あとどれくらい遊べるかばかり気になっていたし、今でも友人に会うが早いか『ゆっくり出来るの?何時の電車に乗るの?子どもたちは?』とか聞いて笑われる

そういう性分なのだ

子どもの頃から割と門限が厳しかったし、いつも誰よりも早く帰らないといけなかった

中学生になると遊びに行く範囲も広がり、時間の読めないお出かけ─電車に乗って滋賀県に遊びに行ったり、大阪へ買い物に行ったり─にははなから興味のないふりをして行かなかったし、高校生の時も文化祭は夜の練習に参加できないので大道具とか裏方に徹し、体育祭の打ち上げも参加しなかった

楽しさを少し知ると、途中で帰るのはとても寂しい

知らなければないのと同じ

ならば始めなければ終わりも来ない

姉は全部参加し、もれなく門限破りをして繰り返し繰り返し親と大喧嘩をしていたがその頃私はそんなエネルギーがなかったので『めげずによくやるなあ』くらいに思っていた

その反動か、ひとり暮らしを始めるとその頃の満たされなかったものを満たすかのように夜を徹して飲んだり歌ったり、絶対最後まで帰らない人のひとりになっていた

今はそんなふうに遊ぶことは無いけれど、その当時はこの時間に終わりが来るのは悲しい、帰りたくないと思っていたがそんなふうに言うのは何となく“はしたない”とか思って帰る雰囲気になったらさっと引き上げていた

何かの終わりやお別れにもめっぽう弱い

照れや、恥ずかしさ、寂しさがあっても感謝の気持や今後の事を前向きに話して、きっちりと物事を終えられるようになりたいと思いつつ、なかなか出来ない未熟な私である

お祭りごときでたいそうやな

寂しいけれどとても楽しかったのでまた来年、見られますように

一夜にして、ほぼ元通りになった町にひとりつぶやく。。。

まあでもこれ以上続いたら体もたへんし、大好きな夏はまだまだ続く!










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