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言葉、詩、台詞、物語、―― 終演に附す

はじめに

ご来場ありがとうございました

この一言に尽きます。

皆さん、ご来場ありがとうございました!

ただ単に上演するだけでは演劇は演劇にはなり得ません。観客が存在してこそはじめて演劇は成立します。昨年逝去したイギリスの劇作家 ピーター・ブルックは著書『なにもない空間』で以下のように述べました。

どこでもいい、なにもない空間――それを指して、私は裸の舞台と呼ぼう。ひとりの人間がこのなにもない空間を歩いて横切る、もうひとりの人間がそれを見つめる――演劇行為が成り立つためには、これだけで足りるはずだ。

ピーター・ブルック『なにもない空間』

やりたいことを好き勝手にやるだけの演劇は、演劇を騙った演劇もどきに過ぎません。座席いっぱいに埋まった観客、あるいはたったひとりの観客でもいいですから「劇を観る人」を想定し、そのうえで公演の準備に取り掛かる。これがなによりも肝要です。

だから皆さん、ご来場ほんとうにありがとうございました。

ところで……まだまだ感想お待ちしております! 公演アンケートは当日パンフレット記載のQRコードから回答できるので、ご協力のほどよろしくお願いいたします🙇

お疲れさま、ありがとう、ごめんなさい

公演に関わってくれた皆さん、お疲れさまでした。座組の初期メンバーはもちろんのこと、美術製作や当日お手伝いをしてくれた新入部員の子たちも、みんなみんなお疲れさま。そしてありがとう。カツカツのスケジュールを乗り越えられたのは、他でもない、みんなのおかげです。

手が回らない僕の代わりに舞台監督の仕事を請け負ってくれ、さらには舞台美術のチーフとして夜遅くまでパネル製作に取り組んでくれたタコさん(飯田先輩)。真夜中の部室ですすったタコさん奢りの二郎系コンビニラーメンの不健康な味は今でも忘れられません。

妻役の玲音さんに棒針編みを伝授してくれたアンワルさん(銅さん)。照明経験豊富なアンワルさんのおかげで、公演当日は最大限のパフォーマンスを発揮できました。

いつもやさしい渡辺さん(天野雨さん)。口無精な僕の演出意図を正確に汲み、素敵な音響素材を用意してくれたとき「ああ、この人に音響をお願いしてよかったな」と、心からそう思いました。

宣伝美術の師匠、吉川さん。吉川さんデザインのフライヤーはどれも素敵で参考になります。公演三日目は受付・撮影・エキストラと三面六臂の活躍、聡明で頼りがいのある先輩です。

次いで役者の方々。
安定した演技の三浦先輩、初役者おつかれ!のラマくん、まるで人妻(誉め言葉です)の玲音さん、迫真の藤居先輩(さかな)、頼りになるくろてん(天聖)、JKが板についたふじーた(松原すみれ)。みんながみんな、素晴らしい演技でした。

最後に五人の新入部員たちへ。
入部早々大きな仕事を手伝ってくれてありがとう。君たちがいてくれたおかげで公演が成功したと言っても過言ではありません。君たちが本格的に公演に関わる日が、僕はどうしようもなく待ち遠しいです。

そして、ごめんなさい。みんなにはたくさん、それはそれはほんとうにたくさんの迷惑をかけました。僕の生来の怠け気質と、それに積み重なる形で重たい枷となった個人的な事情が原因で、きちんとしたスケジュール管理ができませんでした。舞台監督にもかかわらず、ごめんなさい。

くどいようですが僕は言い続けます。こんな頼りない僕を支え、ついてきてくれたみんなには感謝してもしきれません。言い尽くせないほどたくさんの「ありがとう」が僕の身体の端々に氾濫しています。ありがとう。

はじめての演出

今回の公演が僕にとって(ほとんど)はじめての演出経験でした。厳密には今年三月に北池袋で上演した一人芝居『点滴はダイヤモンド』がはじめての演出だったですが、自分に対する演出と他人に対する演出には決定的な断絶があると今回わかったので、ここでは「(ほとんど)はじめて」としました。

自分に対して演出をするとき、僕は言葉を使いません。「なんかちがうな」と感じれば、その曖昧模糊とした「なんか」をわざわざ言語化しなくても自分の演技を修正できます。暗黙裡のフィードバック・ループが僕を良い方向へと導いてくれるわけです。なにもかもが自己完結した演劇、それが一人芝居です。

他人に対して演出をするとき、僕は言葉を使わなければなりません。「なんかちがうな」と感じれば、その曖昧模糊とした「なんか」を深く見つめ、子細に観察し、絡まり合った違和感の結び目を丁寧にほぐし、徐々に析出し言語化されゆく舞台上の課題を口に出して役者と共有することで、はじめて他人の演技に干渉できます。

しかし言葉を使う以上、新たに生じる「言葉の定義の違い」からは逃れられません。共通の辞書を持ち合わせていない僕らにとって、ひとつの単語を取ってもその定義は様々です。

例えば僕が役者に「もっとさびしそうに演じて」と演出指示を出したとき、僕の中では「寂しい」と「淋しい」に明確な違いを与えていても、そのような差異が役者には伝わらなかったりします。反対に、僕よりはるかに多くの「さびしさ」を知っている役者は、僕の言う「さびしさ」がどのさびしさなのかわからずに迷子になってしまうかもしれません。

このような「解釈ちがい」は時として稽古場内に不和を呼びますが、また時としては思いもよらぬ素晴らしい演技に結実することがあります。今回の演出を通して、伝わらないこと・思い通りにいかないことがたくさんあることに気がつきました。逆説的ではありますが、僕にはその「コントロールできない感覚」がたまらなく愛おしかったです。

『ペーパー・バルーン』について

『ペーパー・バルーン』創作のモチベーションを書き残すことは意味あることだと思うし、すくなくとも僕はそう信じ込んでいるので、この場を借りてちょっとした公演のネタバラシをさせてください。

タイトル

岸田國士『紙風船』との二部構成を想定したとき、『紙風船』とのパラレリズムが観客にも明確に伝わるようなタイトルにしなければならないと考え、紙風船の直訳『ペーパー・バルーン』としました。

また僕はカタカナ特有の気障キザな肌触り」「軽い風合い」が好きだったので、英語表記の"paper ballon"ではなく、カタカナ表記の『ペーパー・バルーン』を選びました。

ちなみに、空疎でさわやかな文体が持ち味の初期村上春樹はカタカナの複合語を分かち書きする際に中黒を入れる習慣があり、彼に対する憧憬の念も込めて「ペーパー」と「バルーン」の間に・を入れた次第です。実際、中黒のおかげですこし風通しが良くなった気がします。

黒衣くろご

僕の尊敬する先生にリベラルアーツ研究教育院の高尾隆教授(高尾さん)がいます。インプロ(即興演劇)と吹奏楽教育が専門の高尾さんは昨年度東工大に着任したのですが、そんな彼の集中講義を初開講時から連続して履修するほど、僕は彼のスタンスやスタイルが好きです。

(彼の講義を履修したことがある方はわかると思いますが)高尾さんは年中黒い服装を着ています。そのワケを直接訊ねたところ、ふたつの理由を教えてくれました。

  • 服を選ばずに済むから

  • 黒衣くろごとしていつでも劇に入れるから

一つ目の理由はいかにもスティーブ・ジョブズ・ライクですが、注目すべきは二つ目の理由。高尾さんによると、彼の師であるキース・ジョンストンや同時代の演劇人の多くは黒ずくめの服を着ていたそうです(意識してないだけで現代でも黒い服を着た演劇人は多い気がする)。

その話を聞いたとき「これは公演に使える」と直感しました。70年代アングラ演劇がプロセニアムを壊し、90年代に平田オリザが現代口語演劇を創始し、それらの演劇の古めかしさが未だ新文脈で語られることのない行き詰まりの現在地。こんな状況下で知識も技術も経験もない僕らが提示できる劇の形といえば〈ローテク時代への原点回帰〉に限るでしょう。

オープンスペースでの公演
前説は台本無しのアドリブ
オペレーターは剥き出し
キャスト・スタッフ総力戦体勢

いろいろと挑戦しました。公演アンケートを見ると賛否両論という感じでしたね。賛も否も、等しく受け取りました。貴重なご意見ありがとうございます。

言葉遊び

ちょうど唐十郎の戯曲を読み進めながら『ペーパー・バルーン』の初稿を書いたので、その影響がうっすらと反映されているかもしれません。それこそ幕間で軍服の男を登場させようと思ったのは「唐版 風の又三郎」の次の台詞がイヤになっちゃうほど素敵だったからです。

昭和四十八年八月二十三日、深夜、宇都宮航空自衛隊基地よりLM1型練習機一機、飛びたつ。以降、連絡なく一年になんなんとす。この月夜に、今も翼を銀に染め、夜のむこうをゆくそれは、一体、何と言う作戦 !?

唐十郎「唐版 風の又三郎」

他にも喉仏(adam's apple)のくだりだったり、通りすがりの「月が綺麗ですね」カップル、曜日の擬人化など、遊び心をふんだんに盛り込んだ脚本となっているので、読み返してくださるととってもうれしいです……!

ちなみに、お気に入りの台詞は

単細胞の受精卵。男女のべちもないうちに私は女。世間の女・社会の女・人間の女を強いられて、気がつけば宿命の分だけ身重になって!

創作の指針

最後の最後。脚本志望の方に向けたアドバイスです。学生演劇最大の課題は脚本。脚本がつまらなければ根本的な構造の歪みをはなから抱えた状態で稽古を続ける羽目に陥りこれは本当につらいこと。「脚本を書こう」「物語を作ろう」と一度決心したならば、以下の内容を一読することをおススメします。

(主観がかなりの割合を占めているので、話半分に読んで適当に取捨選択してください)

言葉

言葉、とくに日本語の言葉には様々な響きがあります。まず文字の使い分けについて。

ひらがなカタカナ漢字
ひらがなかたかなかんじ
ヒラガナカタカナカンジ
平仮名片仮名漢字
平仮名かたかなカンジ

これだけでも印象がガラリと変わります。

ひらがなで書く(開く)か漢字で書く(閉じる)か、なども難しい問題のひとつです。天野雨さんがブログで言及していた「あまのあめ、ひらがなで書くと丸っこくて甘そうな名前」は、まさに言葉の手ざわりの話でしょう。心理学には「ブーバ/キキ効果」というものもあります。

言葉の手ざわり、これは日本に限らず世界中で普遍的なことなのです。

僕は観念を語り得る抽象的な言葉をまだ知りません。詩に関しては素人同然です。けれどもギリシャ悲劇やシェイクスピアの例からもわかるように、詩が演劇の一端を担うのは紛れもない事実なので、ここでは軽く詩について触れたいと思います。

好きな詩人を何人か挙げると、

  • ヘッセ

  • ランボー

  • 高橋源一郎

  • 平沢進

ランボーを除く三人の詩は、わかりやすく具体的で、しかも(これが一番大切なことですが)読んでいて楽しいです。ランボーの詩はとにかく力強い。ヘッセには写実性を、ランボーにはどろどろ煮えたぎる言葉の底力を、高橋源一郎には散文と詩の曖昧な境界線を、平沢進には音楽と詩の調和を教えてもらいました。

自分本位の詩、観念をこねくり回した粘土遊びのような詩、作者自身も消化不全に陥っているような詩、これらは徹底的に排しましょう。それでも、ほんとうに、どうしても観念や哲学を伝えたいのなら、詩の形式はかなぐり捨てて、より大きな「演劇」のパッケージで丁寧に梱包して観客へ届けるべきです。

台詞

「実生活での日常会話」と「舞台上での日常会話」は似て非なるものです。このことについて岸田國士は『舞台の言葉』劇的文体と呼んでますが、あくまで台詞は人為的に作られたものであり、日常の現像である必要はまったくありません。「自然体であること」に美学が見出されがちな演劇ですが、だからといってありきたりな会話で構成するのは純粋すぎます。

平野啓一郎『日蝕』の擬古体が現代日本で話題になったように、今の時代チグハグに感じられる文体にこそ、まだ見ぬ金脈が眠っている、僕はそう信じています。僕の求めるものは(すくなくとも、今のところは)ごく普通の日常会話にはありません。

物語

意識して気をつけていることがふたつほど。

ひとつは「わかりやすい物語」

自身の作品を「わからなくてもいい」と弁護する人が往々にして見受けられますが、これは鑑賞者を突き放す極めて傲慢な態度です。わからなくていい物語なんてありません。存在するとしたら「わからなくていいよ、ああ、阿呆アホウな君には理解できないほど高尚で崇高な」物語くらいでしょう。頭の良さをひけらかしたいだけの、ただのナルシストです。

もうひとつは「自分を含まない物語」

「演劇(部)に関する演劇」であるとか「大学生に関する演劇」であるとか、学生演劇はこの禁忌をあまりにも簡単に犯しすぎです。ほんとうに、辞めた方がいい。蚊帳の外の鑑賞者からすると、ただただサムい。

類推するに、このような作品を上演する彼らは仲間内で盛り上がりたいだけなのでしょう。身内にしか伝わらない「演劇部あるある」やら「大学生あるある」やらを連発して「それ、あるある~!」と共感したいのでしょう。そこには観客が存在しません。主体が跋扈ばっこする、透明な演劇です。

あるいは経験不足なだけかもしれません。人生経験や社会経験が足りないから別の世界を書くことができない(経験しないと書けないというのも考え物ですが……)。創作者の浅ましい魂胆、自身の経験不足を私小説ならぬ私劇で補填してしまう吝嗇りんしょく加減、それらすべてを僕は批判したい。

「映画に関する映画(例:雨に唄えば)」
「演劇に関する演劇(例:ハムレット)」
「小説に関する小説(例:1Q84)」
「漫画に関する漫画(例:バクマン)」
「アニメに関するアニメ(例:映像研には手を出すな!)」

これらメタ(?)フィクションは完成度が高いから評価されているのであって、素人がそうやすやすと手を出していい代物ではないのです。


以上。感謝を伝えたり創作秘話を披瀝ひれきしたり愚痴ったり、情緒不安定な終演報告でした。長々とお付き合いありがとうございました。

21B 中川倫太郎


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