【サロンから見る音楽史】 vol.11 ベッリーニに憧れて

モーツァルトやベートーヴェンの時代は、オペラを書かなくては作曲家と言えない、という風潮がありました。そしてこの過渡期にあっても、オペラ作曲家は羨望の的でした。

《清教徒》や《夢遊病の女》で知られ、一世を風靡したベッリーニは、若きショパン、リストの憧れでした。

驚くことに、ベッリーニはイタリアからパリへ渡ったのが32歳、そして34歳の頃、あまりにも早い死を、突然にして迎えます。

ショパンやリストと顔を合わせたのは、その期間のパリ・サロンにおいてです。


ショパンはベッリーニの旋律をこよなく愛していました。

美しく、気品漂い、歌心溢れるその旋律を。

「ベッリーニのオペラを聴け」

と弟子たちに話したのも有名なこと。ピアノという楽器は技を競うものでも、目を奪うようなパフォーマンスでもなく、このように心の琴線に触れる「うた」を奏でるものだという思いが聞こえてくるようです。


ショパンとベッリーニの墓地は同じペールラシェーズにあります。留学時代に訪れた際の写真を載せておきます。

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こちらがショパン。ここにはいつも多くの花が手向けられています。ショパン人気はどこででも健在。

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こちらはもう少し奥まったところにあるベッリーニ。今ではイタリアへ移されていますが、お墓はこのままです。とっても大きな石です。


リストは《ノルマ》をもとに、《ノルマの回想》という作品を遺しています。

聴衆を圧倒させる超絶技巧と、ベッリーニのオペラの内容の深さ、歌心の叙情性を最大限に引き出した、愛のこもった作品ではないでしょうか。


いろいろな解釈や弾き方がありますが、私の好きなものを…

真摯に音そのものと対峙したような演奏が好きです。


さて、サロンは芸術家たちの支援の場であり、交流の場であり、同志たちが熱き夢を共有することもある、「青春」を過ごした場です。


ベッリーニの追悼、亡命者たちに対する慈善活動の一環で、当時パリ音楽界を賑わせていた6人の作曲家が、一つの作品を共に作ります。


《ヘクサメロン変奏曲》

オーストリアからの侵略を逃れ、イタリアからパリへ亡命したベルジョイオーゾ公爵夫人の主催で、「時代を担う音楽家の対決」も兼ねている、話題性を集めた企画です。

公爵夫人の発案とリストの声掛けで、ライバルでもあり良き友でもあったショパン、タールベルク、ツェルニー、ピクシス、エルツの6人が書いたスケッチを、リストがまとめたものです。

さすがリストは世渡り上手でもあり、人との繋がりを大切にする人だな、という印象です。


ベルジョイオーゾ公爵夫人は華やかなものが好きだったため、リストとタールベルクは何かと関わりが強かったご婦人です。

「ライバル」、「対決」というような立ち位置も、こういったマスコミ的存在でもある婦人たちの好んだものでもありました。

音楽家は、いわゆるスポンサーを大切にしなくてはいけません。リストが晩年あのような道を進んでいくのも、華やかさの後ろの葛藤を思わせるものですね。

オペラのパラフレーズをリストがたくさん作曲している背景には、「ピアノ1台で行けるところなら、素晴らしい作品を広めていきたい」というリスト本人の美しい思いもありますが、「花形オペラ作品」をアレンジして超絶技巧を競い合い、自分たちのサロンの魅力や権力を誇示したい、という思惑を持ったご婦人たちのオーダーも多かったことでしょう。

クラシック音楽を届け、伝え続けていくことが夢です。これまで頂いたものは人道支援寄付金(ADRA、UNICEF、日本赤十字社)に充てさせて頂きました。今後とも宜しくお願いします。 深貝理紗子 https://risakofukagai-official.jimdofree.com/