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星野源を題材とした「人の輝き」の話

家で過ごす時間が増えて、ますます今の部屋に引っ越してきていてよかったと思っている。実家で自宅待機していたら、間違いなく発狂していたと思うから。この一年かけて、ゆっくり自分の快適な環境を模索して、物を捨てたり綺麗にしたりを繰り返して、日々の掃除や洗濯などの家事をしながら自分を整える練習を繰り返して、やっと得た安寧なのかも知れない。

SNSのいくつかのグループで、「危ないわね」「気をつけようね」という井戸端会議が繰り広げられているのだが、「昭和は遠くなりにけり」みたいな感じでどこか遠い世界の話のように見える。

もちろん、外は相変わらず雲行きが怪しくもあるんだけど、何となく色々なものが「行き過ぎた」世界に対してのストッパーのようにも感じている。



今日は脈絡もなく、ふと思い出したことをつらつらと書こうと思う。


愛しているように見せかけて、本当は一切愛してないという光景を最近何度かみた。私はそれがとても嫌いだ。

相手に対する敬意や愛がないものは醜く見える。それは言葉にならずともこちら側に伝わってくる。だけど自分のことをそんな風に一切思っていない醜悪さまで見えてくるのでもはや絶望するしかない。この絶望は覚えていなくてはならない絶望なんだと思う。


星野源というアーティストが好きだ。彼の優しい声と曲が好きだ。彼が病から復活した後の曲「SUN」という曲が好きだ。


君の声を聞かせて

雲をよけ世界照らすような

君の声を聞かせて

遠い所も 雨だって

君の歌を聴かせて

澄み渡り世界救うような

君の歌を聴かせて

深い闇でも 月の上も

すべては思い通り




この魂の美しさをなんと言おうか。病を経て復活した後、以前の彼のエッセイを読んでまったくの別人になったのだなと思った。彼を曇らせていた卑屈なところや自信のないところが取れて、もっと純粋な「君の歌を聴かせて」というスタンスに変わって。それから一気に売れていったことは記憶に新しい。


私が星野源が好きだったので、友人である彼女との会話の中にも星野源はときどき登場していた。彼女の仲間たちはわかりやすい事例を紹介しながら、自我やBeingの入れ替わりについて解説してくれた。彼自身の興味の対象が「彼自身」だった自意識の殻がどこかで崩壊したんだろうということや、Beingの入れ替わりが起こった可能性もあること。その人の本質に沿った美しかったが滲み出てくると、人は自然と美しくなるのだということ。それは元の顔の造形がどうとか、そういうことを超えて。


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 「その辺にいそうな若者」だった星野源はもういない。自分に似合う髪型や見た目やスタイリングになり「星野源」になった星野源がいる。ぼやけていた像がピントが合い、よりはっきりと見えるようになった。いい顔になった、と思う。


ぼやけてる時の自分というのは顔立ちも言葉も在りようも、全部ぼやけていく。それは漫然と他人に合わせていたり、自分の目的とは違う場所にずっと居たりすると起こってくるもので、曇っていく。逆に自分に対して誠実に純粋であればあるほど、その光はどんどん強くなっていく。きっとそれは見た目とは関係がない。そういう光を見るのがとても好きだ。美しいと思う。多分私は、それを美しく思える自分のことが好きなのである。自分も少しでもそうありたいと思うし、曇っている誰かが、自分の美しさを見出して、自分を磨いて輝いていくのを見るのが人は本質的に好きなんじゃないかしら、とすら思う。それを憎むのはよほど自分をないがしろにしている人だけで。だから、気にせず歌っていこうじゃないか、あなたの歌を。















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