日記と夢日記17

本日も夢の記憶はなし。

すべてのことが面倒くさくなってしまった。このような場合、なにかとその原因を見つけようとするのだが、別に原因などない。一定のバイオリズムでいつもながらの無気力になる時期がやってきただけの話だ。季節の変わり目になると、自律神経とともに精神が乱れ出し、ただひたすら何もしないということに専念したくなる。

頭が冴えないので何をやっていても楽しくない。本を読んでも内容が入ってこなくなる。音楽を聴くことはできても、特に何も感じたりはしない。もちろん制作などする気が起きない。楽器の練習も面倒くさい。映画やドラマも上の空。どの作品を選んでも「これじゃない」感が否めない。寝る前に観るものを決めかねて小一時間程経過すること度々。睡眠時間は短くなる一方。

これじゃいかん、体を動かそうと思い立ち、散歩してみても効果は乏しい。ただ疲れるだけで、虚しくなってくる。酒を飲んで気を紛らわすという方法もあるが、この時期はなぜか胃腸の調子が良くなく、ただ気持ちが悪くなって終了というパターンが多い。じゃあ、美味しいものでも・・・と思うのだが、何を食べても味気なく感じる。味気がないので、ポテトチップスや菓子パン、フライドポテトやフライドチキンなど味の濃いものを食べるのだが、普段のような脳みそを直接刺激するような美味しさを感じられず、胃腸の調子がさらに悪くなって終わる。

こういうときはじたばたしてもしょうがない。ただのバイオリズムに過ぎないから、無理にもっともらしい原因を拵えたところで深みに嵌るだけだ。解決方法などない。ただじっと待つより仕方がない。

あまり縁起でもないことを言ったらよくないのかもしれないが、念の為、PCのブックマークとHDの中身を整理しておいた。ふと、実家のベッドの下に小学生の頃に書いていた漫画のノートが保管されていることを思い出した。稚拙で他愛のないものだが、万が一誰かに読まれたら恥ずかしいので早めに処分しておきたい。しかし、現状では実家に帰ることは難しい。いつになったら帰れることやら。

平日は毎日渋谷に出向いているのだが、やはり小池百合子の会見以来、相当人が減ったと感じる。山手線も人が少ない。

「1住所当たり2枚の布マスクを配布の方針 安倍首相 」というニュースを見る。馬鹿馬鹿しくてやりきれない。少しでも何かを期待したこちらが馬鹿だったと思わせる戦法なのでは?とさえ考えてしまう。無能な人は反省したり努力して状況を打破するのが億劫なので、失態を続けて相手が折れるのを待つことがある。相手にこの無能に期待してもしょうがないと思わせるのだ。そうして責任を放棄する。遅刻癖のある人なんかがそれに該当するだろう。情けない話だが、こうした戦略は自分も取ってしまうことがある。困ったときなど、ごめん、おれ無能だからさ!あはぁ!と開き直りがちだ。そういう居直りを国がやっているのではないか。恐ろしいのは戦略ではなく本当に馬鹿だった場合だ。これはもうどうしたら良いのかわからない。

20代前半まで政治的な言説を忌避する傾向が自分にはあった。それで問題ないし、何かにコミットすることのほうが危ういぐらいのことは思っていたのだが、今となってはそのことを毎日反省せざるを得ない状況だ。情けない話だが。

考えが変わったのは、たまたま北田暁大の『嗤う日本の「ナショナリズム」』を読んだことがきっかけだ。

2010年にバンドをやってみることになり、ただの音楽のオタクである当方がいわゆる「バンドマン」の世界に足を踏み入れたときに「意識高いね」といった皮肉を言われることが増えた。なんでこんなこと言われるの?何がこういう台詞を言わせているの?という疑問を持った。「意識が高い」などと皮肉を言われるようなセンスの川上にはきっとセゾン文化はあるはずで、さらに、きっとこれはセゾンを源流とする価値観とそれに敵対する何某かの代理戦争に違いないとアタリをつけて、セゾン文化に関する本を読むようになった。

なぜここに突然セゾンが出てくるのか。それは無印良品、あるいはそれに準ずるツルッとしていて小綺麗なものを嘲笑する風潮が感じられたからというのが一つの理由で、「おいしい生活」的な物質的な豊かさに本質は宿らないとするような価値観でもって批判的なことを言われることがあったのがその他の理由だ。

たしか『嗤う日本の』は上野千鶴子と辻井喬(堤清二)の対談本『ポスト消費社会のゆくえ』で紹介されていた気がする。

『嗤う日本の』を読むと今自分がノンポリであることを良しとする価値観が社会的にどのように醸成されていったのか判明し、自分のあり方が相対化されて腑に落ちた。腑に落ちたような気がするものの、あまり理解できておらず何度も繰り返し読むことになった。

『嗤う日本の』を読んでいなかったら、今頃、糸井重里のツイートをRTしていた気がする。以前はああした言説に傾きがちだったからだ。根が愚か者なので、できるだけ楽して溜飲を下げようとしていただろう。別に楽して溜飲下げたって一向に構わないとは思うが、やはりそういう人間がインスタントな言葉でこちらを論って来た場合にどうしても腹が立つし、せめて自分はそういう人間にはならないようにしたい。ただそれだけの話。

逡巡するところはあったが、「意識高いね」といった考えるヒントになる言葉が不意に飛んでくる世界に身を投じたことは間違っていなかったと今にして思う。

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